ドリーム小説
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煌羽の誓い =13= その翌日、はついに州府へと辿り着いた。
和州から訪ねて来たと取り次ぎ、呼ばれるのを待っていた。
しばらくすると客房に通され、またしばらく待たされる事となった。
それもそのはず、は正しく名乗っていはいなかった。
和州止水郷拓峰から来たと言って、虎嘯と名乗った。
何故そうしたのかは自分でも分からない。
ただ咄嗟に出たのだった。
「私は…怖いのかしら…」
と名乗って、拒絶される事が怖かったのか。
それとも、浩瀚の混乱を避ける為に言ったのだろうか。
どちらの心境で言ったにせよ、浩瀚が虎嘯と面識があるはずもなく、訪ねてきた理由も分かりようがなかった。
それに虎嘯と名乗るには、あまりに女性的な容貌をしたに、州府の取り次ぐ者からも訝しげな視線を投げられていた。
待たされている房室内で、は窓際に寄り添って外に目を向けた。
外はなにやら慌ただしげな音が聞こえていたが、それとはうってかわって穏やかな空模様を眺めていた。
深まった秋の空は、穏やかに流れている。
偽王の時とは違い、新王登極のおかげで気候は落ち着きを取り戻していた。
「王の存在は…これだけでも価値のあるものなのね…」
ただ玉座に王がいる。
それだけで保たれる理がある。
「失礼致します」
男の声に、の視線は房内に戻ってくる。
浩瀚ではないその男は、丁寧に礼をして言う。
「麦州州宰を勤めております、柴望と申します。本日麦州侯は多忙ゆえ、失礼かとは存じますが、麦州侯に変わり用件を賜りに参りました」
「まあ、わざわざ州宰がお越しに…恐縮です。しかしながら、私の用件は麦侯に会うことでございます。恐れ入りますが、今一度お取り次ぎ願えますでしょうか。お忙しいのなら、いつまででも待たせて頂きますから」
「は…しかし…。麦侯とは面識が?」
「はい。昔、小さな塾で一緒に教えを請うていた者です」
「小さな…もしや、松塾では?」
柴望の言った事に対し、は警戒して言を選ぶ。
「…何故、松塾とお思いになったのでしょう?」
誤解させたのを知ったのか、柴望は頷いて言った。
「わたしも、松塾の出身だからです」
は緊張と警戒が解けた表情で柴望に言う。
「そうでしたか…。よくご無事で」
「焼き討ちの時、わたしはおりませんでしたから…ひょっとして貴女は…いえ。では、もう少々お待ち願えますか?」
「はい。急ぎの用事ではございませんので、どうぞお気遣いなく」
がそう言うと、柴望は房室を退出していった。
しばらくすると別の府吏がをその場から連れだし、州城の奥の方へと導いていく。
庭院に通され、府吏は下がっていった。
「ここは…」
一本の木が、を手招いていた。
露台と雲海に挟まれたその木は、再会したときに想いを通わせた場所。
『いつも思い出していた。日々忙しさの中ですら、埋没させる事は出来ないほど色鮮やかに、院子と石案とが』
「浩瀚…それは私も同じだったのよ…」
木に手をついたは、雲海を眺めて呟いた。
陽が傾き始めているのを、視界の端が捕らえる。
さわさわと優しい風が泳ぎ、それが一層思い出を煽った。
瞳を閉じれば、鮮明に思い出す。
まだ幼かった自分と、浩瀚の姿が。
院子、石案、浩瀚。
いつもの定位置、他愛もない話。
それらが愛しく、切ない。
「あの盟約は、浩瀚に残したものだった。だけど…本当は自分自身に言い聞かせた物だったのかもしれないわね…生きて再会することを、あの時の私は強く願っていたもの…ううん。あれから、幾度も願ったわ…」
「わたしも、幾度も願った。盟約を果たして、この麦州城にが来ると信じて…」
ふいにかけられた声によって、は弾かれたように木から身を起こして振り返る。
「浩瀚…」
揺れる瞳に映った浩瀚は、一瞬の後に大きくなり、瞬く間に消えてしまった。
気がつけば温かい腕の中におり、は息も詰まりそうなほど、強く抱きしめられていた。
いや、この息の詰まりようは、感情の高ぶりだろうか。
「生きていると、信じていた」
「ほん…本当に?連絡もしなかったのに…?」
「連絡がないからこそ、生きていると信じていた」
「どうして…?」
がそう問えば、浩瀚は腕を緩めて身を起こす。
の滲んだ瞳を覗き込みながら、静かに言った。
「死んだとは聞かなかった。どこからも、誰からも。それならば生きている。生きて何処かに身を隠しているのだと信じていた。焼き討ちのその時まで、は松塾に居たと乙老師から聞いた。警告を発してくれたのにと、たいそう嘆いておられた」
「乙老師には先日お会い致しました。こちらに向かう道中、偶然にも瑛州の固継に立ち寄ったのです。里家に泊めて頂くことになって、そこで再会を致しました」
浩瀚の手がそっと頬に添えられ、音もなく流れ落ちる涙を拭っていた。
「そうか。無事でよかった。また、何処かへ発つなど、無体な事は申されまいな」
「はい…麦州であなたをお助けしたいと思い、ここまでやって参りました。ですが、素直に名乗る勇気が持てず、和州で世話になった者の名を、お借りした次第でございます」
「男の名で面会を計るとは…惨いことを考える」
「…私の気持ちを、お疑いですか?」
「いや…いいや。疑うも何も…生きていたのならそれでよかった。他に何もいらない。こうしてわたしの許に留まってくれるのなら、他に思いを寄せる御仁がいたとて責めはしない」
「思うお方は、過去も未来もあなただけです。他に存在する者がどこにおりましょう」
「では、現在は…」
「もちろん…浩瀚。あなた唯一人です」
「…」
視界は歪みきって何も見えない。
しかし優しく持ち上げられる顔を感じ、はそっと瞳を閉じた。
頬を伝う雫が、浩瀚の手によって途切れた事だけが分かった。
そして受けた口づけは甘く、優しい薫りに包まれていた。
斜陽は雲海から姿を消し、夜の訪れを告げている。
まだ僅かに光を残した蒼い世界の中で、二人の寄り添った影は城内に戻った。
その後、浩瀚は再び政務に戻り、は一人房室で待っていた。
ただし、客人の為に用意された房室ではなく、浩瀚の自室であった。
夜遅くに戻ってきた浩瀚に、は心配した表情で歩み寄って問う。
「私が妙な名乗りかたをしたので、警戒して州宰が来られたのだと思っておりましたわ。だけど本当に…とてもお忙しい時に押しかけてしまったようで…」
その先は浩瀚の手が制し、は口を閉ざした。
「私用であろうとも、わたしにとって、あれ以上重要な事はなかったのだから、致し方ないだろう。が生きて戻ってきたと言うのに、何も話をしないまま政務に従事する事は難しい」
そう言った浩瀚は椅子に腰を下ろし、にも座るように言う。
「さて…ようやく時間が出来た。もしまだ起きているのが苦痛でなければ、今までの事を聞かせてはもらえないだろうか」
頷いたは、質問されるまま答えていった。
麦州城から港町に逃げる際、何者かに襲われて逃げた事。
その後は身を隠しながら、追われる原因を探っていた。
煌羽の活動を再開させようとして、幾度か捕まりかけた事を話した後、松塾に警告に言った事を告げる。
松塾の焼き討ちの際和州城に運ばれ、呀峰の気まぐれによって解放された。
その後和州の親切な舎館の者に助けて貰った事などを話し、最後に乙と再会した時の話を聞かせて長い語りを終えた。
浩瀚はしばらく沈黙を守り、もまた口を閉ざしたままだった。
「盟約がなければ…」
しばらくして、は口を開いて浩瀚に言った。
「私はどこかで挫けていたのかもしれません。この盟約を共有した人々の為に、私は生き抜こうと思い、今日(こんにち)まで生き延びることが出来たのです」
がそう言うと、浩瀚は立ち上がってその背後に移動した。
後ろから包まれるのを感じ、はその腕に手を添える。
「父と母も、松塾の院子でよく話をしたのですって…石案で論議をしたと。だけど、もうその松塾はない。父もおらず、母も…だけど私にはこの腕が残ったのね…いつでも包んでくれる、この優しい腕が」
「いつでもすり抜けて行ってしまうのだから、離さないようにするのが大変難しい。だがこの腕は、が望むのなら、いつでも支えるためにある」
「ありがとう浩瀚。これほどまでに穏やかな心境になったのは、幾年ぶりのことかしら…」
深く吸い込んだ空気の中に、浩瀚の薫りが混じっている。
「」
呼ばれた直後解放され、は浩瀚を振り返った。
手をさしのべているその行動を見て、は立ち上がって自らの手を重ねる。
引かれるまま身を寄せ、浩瀚の胸元でもう一つ大きく息を吸った。
「本当に…帰ってきたのね、麦州に…」
「間違いなく、帰ってきてくれた。わたしの手の中に」
浩瀚の手はの頬に触れ、包むような口付けを与える。
震える睫が濡れていたのは、もう何年も前のこと。
だが、今も同じように濡れて、夜の灯火の中にきらりと反射する。
今はその反射すら、愛しいと感じていた。
もう一度しっかりと抱きしめ、今度は浩瀚の方が大きく息を吸う。
愛しい女の薫りが広がるように感じ、が何故息を吸ったのかが分かった。
「一つ、聞いて良いかしら」
の言に浩瀚は腕を緩めて顔を覗く。
「浩瀚が麦州の官吏になりたいと言った、本当の理由は何?私は父の果てた場所を見たかった。ただそれだけで国官になりたかったの。でも浩瀚は?あなたこそ、国官になれると思うのだけど…?」
「…あの頃のわたしは、王を信用していなかった」
そう言うと浩瀚はを完全に解放し、露台の方へと移動していく。
雲海のさざなむ音を中に招き入れ、浩瀚は薄暗い中に立って言を繋いだ。
「前王の時代の話は、の父君の例を見ても分かるように、酷いありさまだった。その悪政は民に直接のしかかってくる。せめて麦州だけでも、この手で救う事が出来るのならと、そう思っていた」
だが、と浩瀚は続ける。
「新王が起ってもそれは変わることがなかった。女達の国外追放も、出来る限りは押しとどめたが、幾人もの家族が引き離された。わたしの力が及ばず、悲しい結果を招いてしまった。愛する女性すら、その時に手放してしまったのだから」
暗闇から目を背け、を振り返った浩瀚。
そこに目的の人物を見つけることが出来ずに首を傾げた。
すると横から腕が伸びて来て、浩瀚の体に巻き付く。
「それでもあなたはここで待っていた。私はそれを信じ、ここまで来ることが出来たのよ。離散した家族も、今はこの国を目指しているはず。他の州はともかく、天候や災厄がなくなったのだから、麦州には戻ってくるわ」
知らぬ間に移動していたの背に、浩瀚は手を置いて言った。
「そう言ってくれると、救われるようだ」
「新しい王が、いい方だと良いのだけれど…」
「主上は…蓬莱のお生まれだそうだ。靖共が良いように操っていると、そのように聞いている」
そう言うと、は浩瀚から手を離した。
「また…靖共。父の…父の仇なの。父を貶めたのは靖共。母を殺させたのも、あいつよ。呀峰はそう言っていたわ」
は露台から離れて椅子に座った。
浩瀚がやってくるのを待って、襦裙の裾に手をかける。
白い腿が露わになり、浩瀚はその行動に少し驚いていた。
しかしすぐに顔をしかめてを見つめる。
「これは?」
の足、膝の上には大きな傷があった。
仙である彼女が、何故このような傷を持つのだろうか。
「呀峰がこの傷を。歩いて明郭を出ることが出来たのなら、帰してやると言って冬器を突き立てた。仙だとは思っていなかったようね。矢傷もあったし、街の何処かで野垂れ死ぬと思ったのでしょう。覚えていないのだけど、なんとか歩いて明郭を出たようなの。拓峰の人に拾われてなければ、どうなっていたのか…」
赤くみみず腫れのようになったそれを、跪いた浩瀚の指がなぞっていく。
「惨いことを…」
傷に優しく口付けを落とし、はだけた襦裙を元に戻す。
思わぬ行動に頬を褒めたは、顔を上げた浩瀚に習って上を向いた。
赤い顔を隠したと言うのに、立ち上がった浩瀚にあっさりと見られてしまう。
慌てて下に向けようとした顔は、浩瀚の両手によって阻止された。
上から見下ろす顔は苦痛に充ち、それによっての顔色は元に戻った。
「すまない…守ってやることが出来なかった。わたしはただ、この場に留まり…が戻って来ることを待っていた。それだけなら、誰にも出来よう…」
はそれを受けて、燃え上がろうとしていた炎が、急激に消されたような気分になり、小さく呟いた。
「なんて酷い侮辱なの…」
驚いた浩瀚は両手を頬から離す。
は軽く睨んで言った。
「あなたが動いてしまえば、私は何処へ向かえば良かったの?ここで待っていると言ったのは、私の盟約と同じ性質の物だと思っていたわ…それを、誰にでも出来る事だと言うの?」
「いや…それは…」
睨んでいた顔を緩めて、は再び口を開く。
「あなたは麦州の民を多く救っているわ。他州を見て回って、麦州がとても住み良い所だというのが分かった。麦侯はとても民に慕われていたわ。その噂を聞くたびに、私はとても誇らしい気持ちになった。だけど、それを聞いて黙っていない者が居ることも、私は知っている。冢宰、和侯。呀峰はたくさんの犬を飼っているわ。松塾を焼いたのも、呀峰が自ら行ったのではない。靖共が呀峰を使うように、呀峰が使う者がここ、麦州でもうろうろしている。それが安全な事とは言えないと思うのだけど?」
「しかしここは州城だ。おいそれとは…」
「浩瀚」
は浩瀚の口元に手を当て、声を遮って言った。
「これ以上は…無意味な議論ですわ」
「…」
「今、私達に必要な事は、言い争う事ではないはずです」
浩瀚の口元に当てられた指は、大きな手に覆わる。
房室の灯火は、すべてを察したのか、明かりを小さくしていった。
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