ドリーム小説
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煌羽の誓い =7= 後日。
浩瀚は遠方からの尋ね人に面会するべく、州城を政務の場から掌客の場へと移動していた。
客人が待っている房室の前で立ち止まった浩瀚は、一つ大きく息を吐き出す。
煌羽の盟主が訪ねてきた。
盟主は…なのだろうか。
は今、どのような姿をしているのだろうか。
国官にならなかったのだから、もう随分と年を取っているはずだ。
そんな事を考えながら、浩瀚は扉に手をかけ、ゆっくり開いていく。
「お初お目にかかります、麦州候」
跪いた女の声はまだ若い。
伏せられた顔は良く見えず、浩瀚は房室の中に進む。
「先日はうちの者が、大変ご迷惑をおかけ致しました。謝罪を兼ねて伺ったのですが、私に何用がおありなのでしょう」
何も聞いていないのか、女はそのように言う。
「どのように聞いて来られたのだろうか」
浩瀚が声を発した瞬間、女の肩がぴくりと跳ねたように見えた。
「…ただ、麦州候に会いに行けと。温情の数々、重ねてお礼申し上げます」
「わたしはある女性の言を伝えたに過ぎない」
「…」
「いかな境遇に於いても、必ず生きて戻られん。例え竄匿し恥辱を舐めようとも、浩嘆の地に貶められようとも、それを盟誓されんとす。それを伝え、煌羽の盟主に伝言を頼んだ。貴女が煌羽の盟主であろうか?」
僅かに震え始めた女の顔が、ゆっくりと上げられる。
その顔は、浩瀚の記憶とあまり変わりなかった。
少女が女性に変化した程度のもので、確証を持ってだと断定出来る。
「あなたが…麦候…」
驚愕の眼差しは揺れていたが、浩瀚は微笑んで頷いた。
「わたしは麦州の官吏になりたいと、松塾で言ったように思うのだが?」
「…そのようにお聞き致しておりました。ですが、州候におなりとは」
「それよりも他に聞かせて頂きたい事があるのだが」
浩瀚はそう言うと、の傍に近寄る。
そっと背を押して書卓へ導き、椅子を引いてを座らせる。
「貴女も官吏におなりのようだ」
少し大人びた面差しは、最後に別れたあの日から、幾年も経過していない。
ただ落ち着いた口調と、悲しげに笑う表情が、年月の経過を物語っていた。
「私は仙籍の末席におります。かろうじて、という所でしょうか。それなのに、州候のすべてを把握していなかったとは…不覚に思います」
「煌羽の盟主と言うのは?」
の対面に座った浩瀚は、静かに開かれる口元を見つめていた。
「県城に於いて、仙籍の隅のほうに登録されております。国官になるには、あまりに危険でしたので。煌羽では盟主であろうとも、情報源の一人として県城にいるほうが都合良いのです」
「そうか。、煌羽とは母君の…?」
「はい。…煌羽の名から私の存在を?」
がそのように問えば、浩瀚は頷く。
「さすがですわ。そう、煌羽は敦厚と盟羽が名の由来。元来は厚羽(こうわ)。父が死んだ後に、煌羽と改められました。作ったのは父母です。国官になる前に作り、国官になった時にはしばし休止しておりました。そして父の亡き後、野に下った母は再び正道を貫こうとした。国官であった頃に垣間見た不正の数々。それによって苦しむ人々を目前にして、どうしても何かをせずにはおれなかったのでしょう」
は浩瀚から目を逸らし、窓に目を向けて話す。
窓の外には、眩しいまでの蒼穹が広がり、呑みこまれそうな深い色を見せていた。
「空位の今こそ、先の王が定めた税を下げる時だと、母は強く唱えていたようです。麦州を活動の拠点にし、和州、瑛州、紀州に同盟を広げていたようなのです。伯父も煌羽の一員でした」
煌羽の盟主は、じっと窓を見据えて続けた。
「あの日、母が殺されたあの時。私は真っ直ぐ松塾に向かいました。何かあれば伯父を訪ねるように言われていた私は、旅支度を整えて馬を出し、支松に向かって老師に事情を話しました。しかしまだあの時には、何も分かっておらず、母が殺された衝撃から立ち直らぬままであったのです。乙老師に別れを告げ、私は紀州に向かいました」
浩瀚に警告を残し、傷心のまま紀州へと向う姿を想像すると、過去に感じた痛々しいものが甦るようだった。
「伯父の庇護に預かりながら、私は母が殺された理由を探りました。そしてその影に敦羽の存在があったことを知ったのです。迷いはありませんでした。私は伯父と供に再び煌羽を編成し、紀州を中心に、現在も小さな活動をしております」
「活動内容とは?」
「刺史に働きかけるのです。国府に繋がる人物として、刺史をまず観察し、道に悖らぬ人物ならば引き込みます。そして我々は三公と対面を果たしました」
「三公と?それは凄い…」
素直に感心した浩瀚に、は軽く頭を下げた。
「煌羽では各地を回り、地の不条理を纏め、それを三公に訴えます。それを受けた三公によって、王に諫言してもらう事になっております。もちろん、危険でない程度に留め置いて頂く様、申してはいるのですが」
「…母君の仇が和州にいたとか」
「はい。県正でした。当時は匪賊の一人だったのでしょう。靖共の差し金によって、それを実行に移した者であったのです」
「靖共…。やはり絡んできたか」
「ご存知なのでしょうか?」
が問うと、またしても頷きが返ってくる。
「靖共は麦州の者なのです。ですからその時から父母を知っており…国官になってからは、煌羽をなんとかしようと画策した。靖共にとって、煌羽や松塾は邪魔な存在に成り得るからです」
「靖共はわたしも警戒している。今は国府に於いて、王に取り入ろうと必死のようだが…これ以上の権力を持たれたとあっては、辛い状況となろう。なにしろ…」
浩瀚は一度言を切って、再度口を開いた。
「今度の王も、政に対しての興味が薄れてきているようだ。邪な官吏が国府を専横する日も、近いことだろう…」
「ええ…私もそのように聞いております」
そのように返事をするも、の瞳は未だ窓の外に向けられている。
「窓に何か…?」
問えばようやく首が動き、は浩瀚に向き直って笑う。
酷く悲しい笑みに見えた。
「ここから覗いている景色が…懐かしい院子に似ているなと思いまして」
言われてみて、浩瀚は窓に目を向ける。
松塾の院子。
とよく歩いた場所。
薊が揺れて風が踊る。
明るい未来を語り合い、途切れた言が眠る場所。
「少し、歩こう」
浩瀚は立ち上がってに歩み寄り、すっと手を差し出した。
戸惑いを見せながらも、はその手を取り、そのまま引かれて歩き始める。
州城の庭院を歩く二人は、過去の時間が流れているように錯覚した。
まだ若かった二人。
国と州に分かれて、官吏になると語り合った日々。
州城の整えられた庭院の一角には、少し大きめの木が植えられていた。
代わりに松塾の院子にあったような石案はない。
浩瀚は木の葉曇る木の下に潜り込む。
木の前には露台が見えており、また木の反対側、その背後には雲海が広がっていた。
は雲海が見えるほうに背を預け、白く泡立つ波間を見つめている。
「男達の処遇は?」
「追放です。いかな理由があれど、彼らのやった事は私憤に過ぎず、酷く人道を損ねる行為でしたから…そもそも戈剣を手に取る事を、我々は目的としておりません」
苦渋に満ちた決断だったのだろう。
自らの為に行われたその行動によって、罪のない人々が犠牲になったのなら、苦しまないはずはないのだ。
同時に母の仇を討ち取った事を、嬉しく思う気持ちもあったのかもしれないが、盟主であるがゆえ、公正に裁きを与えねばならない。
あどけなく笑っていた少女が、毅然と立つ女性に成長し、浩瀚の目前に存在する。
今この目に映っているのは、昔のなのだろうか。
それとも再会し、再び時が流れようとしているのだろうか。
「いかな境遇に於いても、必ず生きて戻られん。例え竄匿し恥辱を舐めようとも、浩嘆の地に貶められようとも、それを盟誓されんとす」
木に手をつきながら、浩瀚はそう言ってを見る。
は表情を変えず、それをじっと聞いているようだった。
「これはわたしに発した警告だったのだろうか。それともわたしに誓った、の思いなのだろうか」
「…自分でも、よく分からないのです。あの時の事はともかく、それは今、煌羽の盟約になっております。三公にもその精神を伝え、御身の保身を第一に図る様に頼んでおりますから…」
「あの時のことはどうでも良いと?それは酷い…」
雲海を映していた瞳が僅かに揺れ、浩瀚をちらりと見た。
しかしまたすぐに雲海に戻り、さざなみが瞳の中で揺れている。
その一連の動きによって、故意にこちらを見ない事に、浩瀚は気がついた。
だがそのまま言を繋ぐ。
「わたしはその言葉を胸に生きてきた。あの時、まだ頼られるほどの力もなかった。別れすら告げられぬまま、離れてしまったという事実が、己の未熟さを教えていった」
「あの時は、お互いまだ若かったのです。そのようにご自分を責めてはいけません。現にこうして再会したではありませんか。お互い無事でなによりです」
「では何故こちらを見てくれないのだろうか?知古に会うのは、あまり嬉しくないと言うのか?」
は雲海から瞳を逸らし浩瀚を見たが、はやりすぐに元の位置に戻して言った。
「いいえ。とても嬉しく思っております。ただ…慣れないので、少し違和感が拭えないのです。あどけなさがすっかりと無くなられて、なにやら知らない御仁とお話させて頂いているようです」
がそう言うと、浩瀚はふっと笑みを漏らす。
「それでは、わたしも同じことを返そう」
「私は何も変わっておりません」
そうか、と浩瀚は返し、未だ雲海に目を向けているを、じっと見つめていた。
「あの日…来週にと言って、止まってしまった答えを、はもう聞きたくはないのだろうか…?」
どのような答えが返ってくるのだろうか。
その返答によって、次の行動が決まる。
が瞳を合わせないのが、他の理由だとしたら、この木にかけられた手を退けなくてはならない。
「あの日、とは?」
「…忘れているのか」
浩瀚は木から手を離し、自分の元に引寄せていた。
覚えていない程度の事なのだろう。
それとも他に思う人物が存在し、それによって忘れてしまったのか。
「来週にと言った…。最後の日の事でしょうか?」
少し微妙な返答に、浩瀚は少し迷い言った。
「そうだ。と最後に話をした、松塾の院子」
「私が父の最期を聞き、泣いてしまった日ですね。…覚えております」
はそう言うと、ようやく雲海から瞳を逸らした。
しかしその瞳は下を見つめ、浩瀚を映すことはなかった。
「私はすぐに紀州へと戻ります。ですから、恥を承知で言ってしまっても良いでしょうか…」
「何を…?」
「私は松塾に通っている間、ずっと一緒に講義を受けている少年が好きだったようなのです。それに気がついたのは、紀州へと逃れた後だったのですが。その方は立派になられて…州候に就いておられた。これほど嬉しく思ったのは、幾年ぶりの事でしょうか」
ですから、と言い置いては続ける。
「あの日に言いかけた事を聞くのは、未だに怖いのです。守りたい者。私も知っているという、その人物の名を聞くのが、私は怖い…もう、遠い過去であると言うのに…」
浩瀚の顔に笑みが宿り、一度やめた行動を再開させる。
ゆっくりと腕が上がり、片手を木についた浩瀚は、の前に回りこむ。
雲海を背にして、浩瀚の腕は次第にを絡めていった。
「わたしが守りたかった者は、同じように講義を受けていた人物だった。乙老師の講義を受けるのは、週に一度だけ。彼女が通ってくるのも、週に一度だけ。思いを告げようと思ったのは、あの日語られた話によってだった。その気持ちは今も変わらず、抱き続けている。答えてくれねば、燻ったままだ」
の視覚は大幅に隠され、雲海を垣間見る事は難しくなっていた。
にも関わらずその瞳は大きく開かれ、驚愕を露にしている。
「を守りたかった。愛しいと思うものを守る力がほしかった。今からでも…遅くはないだろうか…?」
耳のすぐ後ろから聞こえてくる声に、懐かしさと愛しさが入り混じり、は泣きそうな心境のまま固まっていた。
深く浸透する声。
それはの心を打ち、浚おうとするものだった。
「浩瀚…」
再会して初めて呼ばれた名に、浩瀚は腕の力を緩め、の瞳を見つめながら言った。
「、ずっと待っていた。ここで…麦州で待っていれば、いつか必ず再会できると信じていた」
の瞳は、もう広がる景色を映していなかった。
浩瀚の相貌が瞳に映り込み、他には何も入らないほど一点に集中されている。
集中点にある浩瀚の瞳もまた、同じように見つめていた。
知らず頭の後ろには、支えるための手が添えられ、顔は徐々に距離を縮めてられていく。
口付けたまま動かなくなった二人を、静かな雲海のさざなみが彩り、穏やかな風が包んでいった。
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