ドリーム小説
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夢幻の国 =21= 「滄瀛(そうえい)ともしばしの別れだな」
空の上、そう言った啓明(けいめい)に、更夜の前に乗っていたが言う。
「滄瀛の代わりに、雲海ではいけませんか?」
「もちろん、いけない事はない」
にこりと微笑んだは、更夜に体を預けて紺碧を閉ざす。
ずっと無理をしていたのだ。
まだ血の臭いによって熱がある。
しかし、今はそれの快癒を待っている時間がない。
一刻も早く、嚠喨宮(りゅうりょうきゅう)に戻らねばならなかった。
啓明は血を流しすぎた。
更夜やろくたに血の臭いはなかったので、を任される事になったのだ。
雲海の上を空行する事、一昼夜。
いや、さらに半日を費やした。
遠く雲海に浮かぶ嚠喨宮が見え始めたのは、鬱金に世界が染まる頃だった。
金の世界の中、金の髪が更夜を通り過ぎて後方へ延びる。
揺れる髪の主は、瞳を閉じてぐったりしている。
嚠喨宮に着けば、それぞれに使令をつけると言っていたが、これでは使令も弱っているだろう。
もしもの時に頼りになるのは、この天犬だけかもしれない。
後はもう、運を信じるしかない。
嚠喨宮の禁門に降り立った三名と一匹。
宰輔自ら啓明に付き従い、深く頭を下げることによって、王だと認められるのに時間はかからなかった。
出迎えたのは、禁軍右将軍の莫耶(ばくや)であった。
「莫耶、頼んでおいた事は…」
「すべて万全でございます」
「そう。では主上、参りましょう」
更夜の手を離れて気丈に足を踏み出した。
平素を装っているが、薄く浮かぶ汗を更夜は見逃さなかった。
正殿には百官諸侯が集められた。
一同が揃ったその中に、武装した集団があった。
莫耶(ばくや)率いる禁軍右軍であった。
正殿の外から中に至るまでの警護を、宰輔から直々に任じられたとして、総勢二師がそれに当たっていた。
軍のものは一兵卒以外が各軍集まっていた。
伍長から師帥に至るまで、大司馬の後ろに控えるようにしている。
六官長達も、天地春夏秋冬と並び、位冠の連なる様子を久しぶりに見ることとなった。
ただし天官だけは太宰不在のまま、小宰を筆頭に並ぶ。
事情を詳しく聞かされないまま集められた官達は、不安がる者や憶測を叫ぶ者など様々であった。
右軍が武装のまま立っていることもあり、物々しい感じが拭えなかったので、それも当然かもしれない。
諸官の見守る中、壇上に人影が現れる。
豊かな金の髪をさらりと揺らし、紺碧の瞳を諸官に向けたのは、間違いなく宰輔であった。
暗殺されかけ、姿を消したはずの宰輔である。
どよめきが起きぬはずがなかった。
行方不明であった宰輔が壇上に現れたが、それではこの武装の説明にはならない。
しかし宰輔は壇上で動かない。
ざわめきが静まるのを待っているようだった。
それが分かったのか、徐々に静けさが訪れる。
静まった正殿の中、は待っていたようにすっと身を退いた。
左に移動し、その場で跪いた。
正面に男が現れたのは、そのすぐ後だった。
男が壇上の正面に立ち、それに深く頭を下げる麒麟。
この意味が分からぬ者は、もちろんいない。
驚愕は小さく始まり、次第に大きくなろうとしていた。
狼狽えるような気配が数カ所から漏れたが、やがては歓喜の声によってそれらは消された。
啓明の後方で待機している更夜の耳にも、その声は割れそうなほど大きく響いていた。
「蓬山に向かう前に、どうしてもやっておかねばならない事があり、主上をお連れ致しました」
の声によって、歓喜の声は小さくなった。
固唾を呑んで見守る者が多い。
「本来ならまずは蓬山に赴き、天勅を受けて然るべきなのですが、一刻を争うため、国府をおとないました。もちろん天啓がありました。主上は正式ではないにしろ、契約も終えた正統な王です」
はそう言って王に目を向けた。
啓明は頷くと一歩前に出て、よく通る声で申し渡した。
「心ある禁軍右軍の二師に命じる。冢宰並びに大司馬、さらに首都州師の右中将軍、中軍師帥二名、右軍旅帥一名、禁軍中左将軍、中軍旅帥三名、左軍師帥五名全員、旅帥四名、両司馬一名を捕らえよ」
どよめきは大きく生まれたが、瞬く間に武装した者が動き、啓明の言った者は捕らえられた。
何事かと囁きあわれる声に、啓明の口が開かれる。
「冢宰並びに大司馬の罪は太宰同様、宰輔を弑そうと画策。北の州では冢宰の命によって、焼き払われた街もあった。先王縁の地というだけで、大量に民を虐殺した罪は重い。さらに、それに手を貸した者の罪も深いと考える。民を正しい方向へ導き、民を守るのが国の役目。それを忘れてしまえば、内乱の火が瞬く間に国土を覆うだろう」
静まりかえった正殿の中、天勅も済ませていない王による、異例の捕縛命令だった。
正式には王ではないが、それに反発する声は少なかった。
誰もが知っていて目を瞑っていたのだ。
冢宰が中心で動いている、さらには大司馬や太宰も荷担している。
そうなれば、下手に糾弾することは、自らの命に直結する。
空位の時代に入り、白雉の足を持つ冢宰に逆らえる者など皆無だった。
啓明は禁軍右軍に捕らえられた要人らを見ながら言う。
「俺はまだ王ではないが、民をないがしろにし、自らの利益をあげるため、先の王までを弑逆した罪を、許してやるほど大きな器量をもっていない。一国の宰輔が保身の為に逃げねばならなかった国だと思うと、悲しいばかりだが…何か言いたいことがあれば聞いておく。真に王となった時、考慮の対象になるやもしれん」
冢宰が不敵にも笑って口を開いた。
「ほ…本当に王なのか?い、いや、お前如き下賤の者が王であるはずがない」
「先に行ったことに対する弁明はなく、俺に対しての不満だけと言うことは、真実だと言うことだな」
「汚らわしい!壇上から降りろ!!」
吐き出すように言う冢宰の様子を、は驚いて見たいた。
あのように醜く歪んだ表情の冢宰など、見たことがない。
大司馬は一言も口を開いていないが、すっかり何かを諦めたような顔をしている。
それもまた、肯定している事になる。
「汚らわしいなど…民を苦しめた口から出される言ではありません!」
「そうか、台輔。この男にたぶらかされたのですね。台輔、目を覚まして下さいませ。ここにいるのは、真に王となるべき者ではございますまい」
怒りの表情になったは、啓明をちらりと見てから諸官を見る。
誰もが確たる証拠を欲しているように感じた。
「分かりました」
そう言った瞬間、の体が奇妙に曲がった。
直後、壇上から宰輔が消えたように見えた。
だがすぐに新たなものが諸官の目に入る。
豊かな金は鬣(たてがみ)へと姿を代え、体全体が不思議に輝く。
しなやかに体を滑らし躍り出たのは、紛れもなく神の獣だった。
麒麟は啓明にすりよって、その角を王の手に預けるようにしている。
まさしく、王でないと出来ない事だと誰かが言い出した。
こうなればもはや、冢宰の話しに耳を貸すものはいない。
牢に運ばれるために、冢宰らは正殿を後にする。
は麒麟の姿のまま、今回の事で奔走した禁軍右将軍莫耶(ばくや)に声をかけ、事後処理を任せて内宮に下がった。
蓬山に向かうのを明日に控え、内宮でゆっくり睡眠をとるため、その日は早々に眠ることになった。
啓明と更夜は、夜通し起きて空行していたのだから、相当疲れているはずだった。
使令を王につけて警護を言い渡すと、も仁重殿へと引き上げていった。
もちろん、更夜はずっとの後ろについている。
更夜には、以前逗留していた一郭が再び用意された。
と離れて眠るのは、久しぶりの事になる。
牀に倒れ込むようにして横になると、うつらうつらと微睡(まどろ)むような瞬間はすぐに訪れた。
扉が開くのがうっすらと分かる。
閉じそうな視界の中で、金の髪が揺れていた。
「…?」
「一人で眠るのが不安で、来てしまいました…」
微睡む中、更夜は微笑んで言う。
「…おいで、」
すっと隣にくる。
柔らかな髪が頬に優しい。
「更夜、ありがとうございます。本当に…どれほど感謝しても、足りないと思うほどなのです…」
ぱきん、と音が鳴る。
「感謝なんて…しなくても…いいよ」
「いいえ…深く感謝致します、更夜。本当にありがとうございます」
また一つ、枝を折る音。
しかしそれももう慣れた。
ただ今は明日に備えて眠らなければならない。
更夜は眠りの中に埋没していく意識を感じながら、知らずの体を引き寄せていた。
離れないようにと、無意識の内に行った事だった。
「俺達はどこの国の庇護も受けることは出来ない。黄海でこうして生きていくしかない者だっている。だから、俺達の帰るべき国は黄海なんだ。それなのに、子を願う事すら…叶わないと言うのか?生まれた国が違うと言うだけで…」
男は涙を流したまま、血にまみれた女を抱えていた。
彼らは先日結婚した。
もちろん野合である。
そして子を望んだ。
しかし出身は舜と才。
子は望めない。
そして今日、女は妖魔に襲われた。
なんとか逃げ帰ってきた里で、愛しい男の名を呼んで朽ちた。
せめて子がいれば、男の生きる糧となったのかもしれなかった。
ふいに場面が切り替わり、更夜の目前には老爺がいる。
「何処の国でも受け入れられない。まっとうな暮らしなど出来はしない。だけど…ここは間違いなく黄朱の里じゃ。何処の王も認めない、天すらも認めない、不毛の地に生まれた里。里とは認められていないが…それでも里なんじゃ」
子が望めないことを除けば…と老爺は寂しげに語った。
黄朱は人であって人ではない。
帰る居院(ばしょ)も国も持たない彼らが、唯一拠り所としたのがこの里だった。
黄海と言う荒地に生まれた、小さな希望。
里と呼ぶにはあまりにも小さい。
それでも黄朱はこの地に集まった。
阻害され、誹(そし)られても帰る場所がある。
里を守るべき確たるものが欲しいと切望する声が、天からも見放されたこの地に広がった、最初の願いだったのかもしれない。
何故この者達の力になりたいと思ったのか、更夜にも分からない。
人でありながらも、暖かい人の輪の中に入ってゆけぬ悲しさが、己の境遇と重なったのかもしれない。
人のために、これほど強く何かを願った事などなかった。
その願いが天に届く事はないと知っていても、祈らずにはおれないほど強い願いであった。
今までに蓄積された幾多もの願い。
それらに取り憑かれたのだろうか。
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