ドリーム小説
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そして三ヶ月が経過した。
「今日はこれぐらいにしておこう。も寝た方がいい」
そう言われては顔を上げた。
今日は文字の練習をしていたのだ。
桓タイの言葉は聞くものによって、都合の良いように聞こえるらしく、特に知らない単語以外は、勝手に翻訳される。
文字を書く事によって、正確な名前を覚える。
しかし慣れない筆に苦労していた。
「うん。これだけ、綺麗に書けたらちゃんと寝る」
は寝る間も惜しんで勉強していた。
ちらりと榴醒石に目を向け、よし、と心の中で自分を励ます。
今日は『青辛』の文字を練習していた。
自分の名前を連ねられると、気恥ずかしく思う桓タイだったが、同時に何か擽られるような感覚をも覚える。
「なんだか、恥ずかしいな。こうゆうのは」
が書き、失敗したそれを手にとって、照れた表情で笑う。
「そう?でも、もうどうしても綺麗に書きたいの」
そう言っては白紙に向かった。
青辛とは桓タイの姓名だった。
知らぬ文字ではないが、筆を思うように扱えない。
命の恩人である桓タイに、は感謝していた。
その桓タイの字を綺麗に書けないと言うのは、なんだか申し訳ないような気がし、必死になって練習していたのだ。
「青も辛も難しいわ。辛は綺麗に整わないし、青は滲んでしまう…」
「滲むのは慣れるしかないなぁ。でも、辛なら…」
そう言って後ろに周りこみ、の右手に自らの右手を添えた。
「こう引いて、下から少し残して止める。そして…」
出来上がった文字は均等のとれた文字で、の目指していた文字そのものだった。
「すごい!ありがとう」
は頭を後ろに向け、仰ぐように桓タイを見た。
の頭が動いたのを感じた桓タイは、顔を下に向けた。
近距離でばちっと目が合い、桓タイは弾かれたように体を反らした。
も慌てて下を向く。
沈黙が書房に下りて、気まずい雰囲気が流れた。
沈黙したまま、は持っていた筆を握り直し、先程のように書く。
先程よりはやや崩れた感じのものになったが、桓タイはそれを見て綺麗に書けていると褒めた。
「綺麗に書けたから、もう寝るね…」
そう言ったに、桓タイは黙って頷き、二人は書房を後にした。
桓タイは自室に戻って、脳裏から離れない物を直視した。
振り返ったの顔が、とてもまぶしく感じ、とても愛しく思う。
しかし、と思いなおし頭を振って忘れようとした。
もまた、自室に戻って赤い顔をしていた。
優しく包まれた右手から、情熱が駆け上がってくるのを感じていた。
しかし、頭を振って忘れようとした。
「は海客だ。何も知らない世界に投げ出されて、頼るものも何もない…」
優しくされれば、気持ちが向くものだろう。
気持ちを告げると言うのは、そこに付け入るように思えて、自分がとても卑怯な者に感じる。
「そもそも、あんな姿で現れるが悪い」
水着姿のを思い出し、赤くなる莫迦な軍人が一人呟いた。
「桓タイは優しいもの。私が海客だから心配してくれているのよ」
忙しいだろうに、のためにかなりの時間を割いてくれている桓タイを思い、は溜め息を落とす。
桓タイは優しいから、妖魔に追われ、海客であるを、見捨てる事が出来なかった。
いつか、桓タイに恩を返さなければ。
好きだと告げてしまう事は、桓タイの優しさを利用するようで嫌だった。
「優しい桓タイが悪いのよ…」
気持ちの責任を擦り付け、赤くなる海客が一人呟いた。
「桓タイ」
州城で呼び止められた桓タイは振り返り、そこに麦州候を見つけた。
「浩瀚様」
軽く礼をし、浩瀚が近付くのを待った。
「例の娘はどうしている」
例の娘とはもちろん、の事である。
「とても良く勉強していますよ。飲み込みが早いので、教えるのも楽ですね」
そう言って笑った桓タイに、浩瀚は微笑む。
「では、そろそろ登用しても良い頃だろう。戸籍も用意してある」
桓タイの表情が明るくなった。
「利発そうな娘だったな。桓タイから拾ったと聞いたときには驚いたが」
桓タイは少し赤くなりながら、その時の様子を思い出した。
浩瀚はその表情を見て、意地悪く笑った。
「州城に務めなくとも、婚姻すれば、同じく仙になれると思うのだが、それではいけないのか?」
桓タイは赤い顔をますます赤くして、浩瀚に向かっていった。
「な、何を仰っるんです!彼女はこちらに来て、まだ三ヶ月しか経っていないんですよ。婚姻など…」
言葉に詰まった桓タイを、浩瀚は面白そうに眺め、冗談だと言ってその場を去って行った。
残された桓タイは唖然として、浩瀚の後姿を見ていた。
自宅に戻った桓タイは、の元を訪れ、登用が決ったと告げた。
「本当!?」
「ああ、麦候がそう言って下さった」
「ありがとう!桓タイ!!」
はそう言って桓タイに飛びついた。
喜びのあまりとった行動だったが、桓タイを凍らせるには充分だった。
しかしはそれに気付かず、頭だけを起こして桓タイに言った。
「本当に、桓タイのおかげよ。何もかも。私、本当はあの時に、死んでいたかもしれないもの。もし桓タイが助けてくれなかったら、褐狙に食べられていたんだわ」
狼に似た、巨大な獣が褐狙だと教えてくれたのも、もちろん桓タイだった。
桓タイは見上げたの背に手を伸ばし、ぎゅっと抱きしめた。
あの時、麦州の端にある里に人妖が出たと聞いて、林の中を探していた。
するとなにやら悲鳴が聞こえ、そちらに向かうと人が襲われていた。
よく確認する間もなく、褐狙が襲い掛かろうとするのを止め、振り返ってみれば裸同然の女が座り込んでいた。
これは人妖だと思い剣を向けてみるが、とても妖魔らしくない。
格好を除けば、人間に見えるし、ひどく惹きつけられるような気がした。
しかしその惹きつけられる感じが、ますます人妖のようだと思った。
確認のために問うてみれば、人語を話す。
流されてきたのだと聞き、海客だと判った。
桓タイの知る海客とは違った格好だったが、そんな格好の海客もいるのだと納得した。
その出会いから三ヶ月。
初めて胸元に抱きしめるを、放すことが桓タイには出来なかった。
抱く腕に、自然と力が入る。
「…い」
の掠れた声が聞こえ、桓タイは下を見た。
「…くる…しい」
苦しいと言われて、慌てて手を離す。
「す、すまない」
決り悪そうに言って、から離れた。
がいなくなった胸元が、妙に寒く感じるのは、秋が終わろうとしているからだろうか…。
「ううん。桓タイってとても力が強いのね」
「あ、ああ。力だけはあるんだ。なにしろ俺は…」
そこではっとなって口を噤む。
は不思議そうに首を傾げ、桓タイの言葉を待った。
桓タイは後悔していた。
懸命に言い訳を探す。
こんな些細な会話で漏らしてしまうなど、今までなかったことだ。
「どうしたの?」
問われて何も言えないでいると、は少し悲しそうな顔をして言った。
「聞いちゃいけない事?なら、言わなくてもいいよ…」
そう言って、自室に戻ろうとするの腕を、桓タイは反射的に掴んでいた。
は掴まれた腕と供に振りかえり、再び桓タイを見た。
「い、いや。その…」
怪訝そうに見つめるに、桓タイは思い切って言った。
「俺は半獣なんだ」
そう言って、桓タイはから手を離し、慌てて踵を返した。
は言われた事を反復する。
半獣?いつか桓タイから聞いた。
半分は獣で、半分は人だと言う。
それが桓タイ。
そう言われても、にはよく理解出来なかった。
しかし、桓タイが言いにくくしている理由は判った。
ここ慶東国では、海客も、半獣も認められない。
それは、差別だ。
は人妖に間違われたが、海客であるだけでも何をされたか判ったものじゃないと、いつか桓タイが言っていた。
桓タイは半獣だったから差別しなかったのだろうか?
半獣だから、桓タイは差別されると思ったのだろうか?
は消えた桓タイの後を追った。
自室に戻っているだろうと思ったが、桓タイは戻っておらず、は探す当てを見つけられなかった。
そのまま次の日を迎えたは、もやもやした気分のまま桓タイが来るのを待った。
勉強の時間になれば、必ず来るはずだと、そう思っていた。
しかしその日、桓タイは現れなかった。
変わりに州城からの使いだと言う者がやってきて、はそのまま州城に移動することになった。
桓タイに何も言えないまま、州城に行く事は気が咎めたので、使いのものに頼んだのだが、急ぐと言われて仕方なく出る。
麦州候の浩瀚が住む所を与えてくれ、ますます桓タイと遠ざかった。
それから桓タイとはあまり会う機会がなくなった。
州城でたまに出会うが、を見つけると桓タイは逃げるようにその場を去る。
次第には諦めて行った。
露骨に避けられると、嫌われているとしか思えなかった。
最後に半獣だと告げたのは、海客だから嫌いだと言うのではない。
差別ではなく、一男として好きではない。
そう言いたかったのではないだろうかと、思うようになっていた。
何度も泣いたが、年月がそれを忘れさせた。
が州城に務めだして、約十年が経とうとしていた。
戸籍を用意されたは、慶の生まれという事になっており、州司徒にまで昇格していた。
どうやって戸籍を偽造したのかを、聞いた事はなかったが…州司徒の任は、州城に上がって約半年の時に、浩瀚から適任だと言って任命されていた。
ある日、州城に朗報が届いた。
慶に新しい王が立ったのだと言う。
新王の名を舒覚と言った。
「これで慶も良くなろう」
浩瀚はそう言って微笑んだ。
は麦候を尊敬していた。
目端のよく聞く、いい州候だと思っていた。
実際、浩瀚はとても民に慕われており、よく善政を敷いていた。
出自で人を判断せず、自らの目を持って接する。
海客のを登用した事をとっても、それはよく判る。
国の方針に背くような事はしないが、それが良いことなら上手くやる方法も知っていた。
は漠然と思う。
新王の事は知らないけれど、浩瀚が良くなると言えば、本当に良くなるような気がしていた。
それが儚い夢と消えるなど、この時誰が思っただろうか。
新王の登極まで、随分待ったのだ。
が流された時、すでに国は荒廃していたが、他州にくらべて麦州は豊かだと知った。
それは浩瀚の手腕だろうというのも、州城に来て知った。
そして、浩瀚が桓タイを気に入っている事も知っていた。
そこで思考が止まる。
桓タイとは相変わらず顔を合わせていない。
同じ州城に務めているのだから、もっと出会っても良さそうに思うのだが、三ヶ月間姿を見ない事もあった。
故意に避けているのだろうが、それがには辛い。
しかし長い歳月の間に、は考えないでおく、と言う方法を見つけ出していた。
いや、辛さをなくす為には、そうするしかなかったのだ。
十年の間に、に言いよる男もいたが、どうしてもそれを受け入れる事のできない自分がいた。
いつまでたっても、の目はただ一人を追っている。
そして、本人のあずかり知らぬ所では、に言い寄ると痛い目を見る、など囁かれていた。
そのせいで、言い寄る男の数は徐々に減っていった。
しかし、そのような事は問題ではなく、は胸の痛みを肌に感じながら、過ごしていた。
仕事に集中する事で、それを忘れようとしているのに、こんな些細な事で、すぐに脳裏を過ぎる顔がある。
知らず溜め息を零し、は頭を振って忘れようとした。
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