ドリーム小説
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翌日、は騎獣を伴って港に向かった。
丸一日駆けてついたそこには、すでに女でごった返している。
は女達を港に留め置き、その中から幾人かを選出した。
選出した女を長に据え、十人ほどの組を作らせる。
組長となった彼女たちと、密に連絡を取ることで、統率を取っていったのだ。
「国府の人間に係わらず、誰かに聞かれたら、すぐにでも国を出たいと言うのよ。すこしでも天候の悪い日は、船が出ないと言えばいいわ。天候の良い日なら、船が足りないと言うのよ。船団には話をつけているから、口裏を合わせてくれる。彼らが聞くことはないでしょうから、見慣れない人には注意してね」
の言った事は、組長を筆頭に、女達に行き渡る。
定期的に会議を開き、足りない物を聞いては、州城に奏上した。
それとは別に、は色々と動いていた。
いざという時のために、船を隠そうと試みたが、全員が逃げるほどの船を確保することは出来なかった。
それならば、とは港を出て山野を歩いた。
上空からは見えず、地上からも発見され難い所に、小さな集落を作ろうと考えたのだ。
一時、避難できるだけでもよかったが、そこで田を耕し、生活できればもっと良かった。
しかし、そんな都合の良い場所がそうそうあるはずもなく、はほぼ毎日、山野を歩いて過ごした。
国の傾きは山野を歩くと歴然としていた。
妖魔に遭遇する事が多かったからだ。
騎獣を伴っていたので、大方問題はなかったが、折角良い土地を見つけたと思った矢先に、妖魔に遭遇すれば、目印をつける間もなく、逃げ出さねばならなかった。
今日もは騎獣の手綱をとって、山野を歩いていた。
「ふう…」
なかなか良い土地を発見できず、は足を止めた。
どこかで川の流れる音を聞き、ふとそちらに視線を向ける。
「こんな所に川があったかしら」
そう言って足を向ける。
すると張り出した木の根に足を取られ、転んでしまった。
「いたた…」
ごつんと音がした頭を摩りながら、起き上がる。
手綱はの手を放れ、騎獣はの体一つ分上にいた。
はよじ登れる場所を探すために、少し横に歩いた。
登れそうな場所を見つけ、手を掛けたところに騎獣の悲鳴に似た泣き声がする。
はたと目を向けると、赤いものがちらりと見えた。
は背筋が凍るのを覚えた。
いつか見た、あの妖魔ではなかろうか。
まだ春だと言うのに、の額はじっとりと湿っていた。
息を詰めて事の成り行きを見守るは、ゆらりと視界に映りだす物を見た。
それは危惧した通り、褐狙だった。
虎ほどもある、赤い毛並みの狼。
褐狙はを見つけ、血で染まった牙を舌でなめとった。
助けてくれる者はいない。
逃げるための騎獣もいない。
どうしたものかと考える間もなく、褐狙は踊るように跳ね上がった。
軽くの前に着地し、その距離を詰める。
褐狙が距離をかなり縮めた時、いつかの風景が脳裏を過ぎった。
目を閉じて三度目の死を覚悟したあの時、目を開けるとそこに桓タイの背中があった。
桓タイとはあの抱擁の後、何も言葉を交わさないままここに至る。
抱擁の意味を、知らぬまま死ぬのは嫌だと思った。
だが、褐狙は飛び掛るための屈伸に入る。
は人生にして四度目の死を覚悟した。 地響きがして、そのせいで体が揺れている。
手で顔を覆い屈んだが、衝撃が来ない。
まさか、と思って目を開けたの目前には、桓タイの背中ではなく、大きな黒いものがあった。
横には倒れた褐狙の頭が見えている。
なにだろうと目を凝らしていると、それは大きな熊だった。
二本足で立って、威嚇している。
何に威嚇しているのかと思ったが、新たな褐狙が目に入り疑問は解けた。
熊は新たに現れた褐狙に向かって行った。
褐狙は一匹ではなく、五匹もいたのだ。
二匹目の褐狙を一振りでなぎ倒した熊は、三匹、四匹と鮮やかに倒していく。
あっという間に、五匹の褐狙はなぎ払われていた。
熊は褐狙を払うと、の元へ歩いて来た。
不思議と恐怖が湧いてこなかったのは、さきほど死を覚悟したせいだろうか。
熊は四本の足を地につけて、のそり、のそりと、の目前まで来ると、立ち止まる。
食べられるのだろうか…そんな事をぼんやり思いながら、は熊と見つめあった。
ふいに、その目を懐かしく感じ、は無意識に名を呼んだ。
「桓タイ…」
熊はぴくりと動く。
しばらくすると、の頭上から、低く太い声がした。
「何故、俺だと判った」
は人語を話す熊を見て、しばし固まった。
しかし桓タイが半獣だった事を思い出し、獣の姿をした桓タイだと気がついた。
大きな熊の顔を両手で包み、その柔らかな眉間に自らの顔を埋める。
温かいその毛並みに、ぽつり、ぽつりと涙が毀れた。
「桓タイは卑怯だよ。いつも窮地には助けてくれるくせに、こんなに私を苦しめる。嫌われているのかと思えば、いきなり抱きしめてくれたりする…私は、桓タイが判らない。何も言ってくれない桓タイの気持ちが、全然判らない」
「俺は半獣だ。に愛される権利なんかない」
は熊の顔から両手を離し、体を離した。
「何よ、それ。それを言い出したら、私だって海客だわ。この国で生まれた人間じゃない。この世界の人間でもない。でも私は桓タイが好きだわ。これはどうしようもないもの」
言って頬を涙が伝う。
十数年分の鬱積を晴らすように、は再び口を開いた。
「桓タイが半獣なのだって、知ってるじゃない…熊になれるのは、知らなかったけど、それでも桓タイには違いないんでしょう?熊になると何かが変わるの?桓タイの心の何かが変わるの!?それとも海客は半獣を好きになってはいけないの?人を好きになってはいけないの!?」
熊は驚いたようにを見つめていた。
は耐えられなくなって、両手で顔を覆った。
そしてそのまましゃがみ込んで泣いた。
湿った感触がの頬に触れ、何かと見上げると、熊の鼻が頬についていた。
涙を拭おうというのだろうか。
それでも大きすぎて、それは出来なかったのだが。
は立ち上がり、桓タイに言った。
「桓タイの本当の気持ちを聞かせて。嫌いなら嫌いでいい。それなら諦められる。姿を見るのも嫌だと言うなら、そうする。仙籍を返上してもいい。避けられて何十年も過ごすより、その方がずっと楽だわ…」
自嘲気味に言った言葉は、の胸をますます締め付ける。
いっそ出会わなければ、良かったのかもしれない…。
そう思うと顔を向けていることすら辛く感じ、は堪らなくなって、桓タイに背を向けた。
背を向けて、涙を抑えようと必死に頑張ったが、後から後から流れては落ちていく。
止める術が見つからず、ついには諦めて、泣けるだけ泣いてやろうと思った頃、涙を拭う手があった。
熊の手ではなく、人間の手。
後ろから抱きしめられる、優しい感触と供に、囁かれた言葉。
「愛している」
は涙が止まるどころか、ますます溢れ出すのを感じた。
体中が歓喜を訴え、嬉しくても涙が出るのだと、この時初めて知った。
「海客は普通の人間だ。子供を腹に身ごもる以外は、こちらの人間となんら変わりない。それすらも、こちらにくれば関係なくなる。でも半獣は、獣だ。差別される事に代わりはないが、俺は害のない猫のような半獣ではない。熊だ」
桓タイは自嘲気味に言って、さらに語る。
「俺は今まで半獣だからと、人に接する事を恐れた事はなかった。だけど、にだけは怖がられたくなかった。熊の半獣だと知ったら、怖がるだろうと思っていた。聞いただけで怖がらずとも、姿を見れば恐怖を感じるだろうと思っていた。それが…何よりも怖かった」
「そんなわけ、ないじゃない…」
「始めて会った時から、ずっと好きだった。あの時、それを言うのは卑怯だと思って我慢していた。しかし体力が戻りだしたを見ていると、きっと俺よりもいい男が似合うのだと思い始めた。は綺麗だから」
は喜びに打ち震え、涙が溢れるのを我慢しなかった。
「でも、限界みたいだ。は俺が熊の半獣でも、受け入れてくれた。それなら、もう気持ちを抑える必要もない。好きだ、。愛している」
桓タイの言葉に、は赤くなりながらも答えた。
「私も、桓タイが好きよ。もうずっと前から。そう、きっと初めて助けてもらった時から好きだった。守ってくれた強い背中を、忘れる事が出来なかったの…」
そう言って、桓タイの顔を見ようと、は体を捻ろうとした。
「莫迦!おまえ、振り向くな!」
慌てて力をいれて、の体を固定する桓タイ。
「桓タイの顔が見たいの」
そう言って身動ぎするが、まったく動かすことはできなかった。
桓タイは顔を前に突き出し、ほらと見せた。
は桓タイの顔を見ようとして、首を横に捻った。
横に捻ったの唇に、桓タイの唇が触れる。
「辛い思いをさせて、すまなかった…。俺が臆病だったせいで、こんなにを苦しめた」
後ろから抱きしめたまま、桓タイはの耳元に囁いた。
十数年間の想いは、お互いを縛りつけ、苦しめたが、ようやく雪解けとなった。
「ねえ、どうして振り向いては駄目なの?」
「俺はさっきまで熊だったんだ。あの大きさに見合う服を着ていると思うのか?」
そう言われて、はやっと気がついた。
「と言うことは、その、今は…裸?」
そうだ、とぶっきらぼうな声が返ってきて、はどっと顔が赤くなった。
「ちょっとそのままでいろよ。絶対に振り向くなよ」
身を引く気配を後ろで感じ、は言われたまま固まっていた。
「もう、いいぞ」
低く太い声に振り返ると、再び熊になった桓タイがいた。
は熊に手を伸ばし、肩に寄りかかった。
「やっぱり、温かい…桓タイは人間でも、熊でも温かいのね」
その毛並みに顔を埋めて、は大きく息を吸い込んだ。
ずっとこうしたかった。
人間でも獣でも関係ない。
桓タイに触れていたかったのだ。
幾度それを夢に見たことだろうか。
それは桓タイも同じだった。
ずっとに触れたかった。
感情だけが暴走して、身を切り裂いてしまいそうだった。
十数年の間に、忘れようとしても忘れる事の出来なかった、その愛しい顔を、なんどこの手で抱きしめたいと思った事か。
一度でも触れてしまえば、壊れるまで抱きしめてしまいたくなる衝動を。
それを抑えることの辛さを、この長い年月の間に、幾度となく戦ってきた。
桓タイの肩に顔を埋めていたは、ふいに離れ、桓タイに聞いた。
「もう、避けないでね…何も言わずに悩まないで」
熊はゆっくりと頷き、体を起こした。
明るかった林は、徐々に薄暗さを増していた。
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