ドリーム小説
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赤灑灑 =2= 「っだ、大…、大司空…」
「ん?」
何かの声に気が付いた琅燦(ろうさん)は、帙(ほん)から顔をあげ、きょろりと辺りを見回した。
椅子に座って片膝を立てていたため、深く腰掛けている。
ゆえに書類と帙に埋まって周りがよく見えない。
手に余るような大きな帙を閉じると、卓子の上に投げ出して立ち上がった。
「ああ、じゃない。どうしたの?」
「お、お、お、お逢いする事が、か、か、叶いました」
「へえ、氾王と?本当にやったの?」
「わ、わ、わざとではございません。で、ですが…その…」
「…まずは落ち着きなさい。言いたいことがあるなら、それから言うんだね」
「あ、は、は、はい…」
は慌てて息を吸い込み、出来るだけゆっくりと吐き出す。
数回それを繰り返して、ようやく落ち着いた。
落ち着いたところで、おもむろに琅燦に向かって言った。
「大司空、私を範へ行かせて下さい」
「いいよ」
あまりにもあっさりとした返事に、はぽかんと口をあけたまま固まった。
「何?反対してほしかったの?」
「え、あ、いえ…」
反対して欲しい訳ではない。
だが、これではあまりにもあっさり過ぎる。
そんなに価値のない官吏だったのだろうか。
のその考えを悟ったのか、琅燦は説明するように言った。
「勉強する事は良いことでしょう。ゆくゆくは戴の役に立つ。もちろん、そのまま範の民になるのなら、それを止めることは出来ないけどね。まあ、それはそれで好都合」
「好…都合でしょうか?」
「もちろん。範は匠の国だからね。戴の玉を一番欲しているのも範だ。玉を出すのが戴なら、それを受け取る範に元戴の人間がいたほうが都合良い。戴の冬官がどのように石を切り出すか知っているだろう?産地によっての善し悪しも良く知っている」
「でも、それでは良い所ばかり範が取ることにはなりませんか?」
「なるだろうね」
「そ、それでは他国へは…」
「そこは問題じゃないんだよ。戴の玉が、範で磨かれる。それが他国へ流出する。もちろん表面上は範の工芸品だが、元は戴の玉が使われている事も知っているだろう。匠の業が優れているのか、玉の品質が良いのか、手に取った者は考えるだろうね。ましてやそれが他国の冬官の手に渡ってごらん。なら、それをどうする?」
「同じ玉を探し出し、加工を試みる…でしょうか」
「その通り。だがそれだけじゃない。それが素晴らしい加工品であればあるほど、範の名が広まるだろう。そして、玉を産出した戴もまた、例外ではない」
「あ…ああ、なるほど。大司空は考える事がとても深いのですね。そこまで考えが及びませんでした」
「腕のいい冬官が減るのは少し悲しいが、先行投資だと思う事にする。まあ、気が向いたら、範の技術を盗んで戻っておいで。主上にはわたしから上手く言っておくから」
「大司空…」
が感極まった声で呟くと、琅燦は少し笑って言った。
「だけど、わたしの勘では戻って来ないだろうね。少し寂しいが、それも仕方がない」
肩を竦めて笑って見せる小柄な女性が、大きな尊敬に値する人物だと、は改めて思った。
冬官府を退出したは、駆けるようにして氾王の許へ戻った。
許しが出たと告げると、柔和な笑みが歓迎を示す。
それから範へ渡ったは、快く送り出してくれた琅燦の気持ちに答えるため、あるいは見いだしてくれた氾王に答えるため、懸命に勉強を重ねた。
技術だけではなく、知識も広く取り入れるように心がけ、他国の流通事情も勉強した。
そしてが範へ渡って一つの季節が流れた。
「、!」
遠くから呼ぶ声が聞こえ、は顔を上げて辺りを見回す。
ぱたぱたと軽い音が聞こえ始めると、声の主は急激に姿を現した。
「台輔!」
範の冬官府へやってきたのは、この国の麒麟、氾麟であった。
こうやって人目を盗んでは、のいる所にやってくることもしばしば。
柔らかな線で構成されたその少女は、に駆け寄って笑顔で言う。
「この連珠、が造ったのですって?主上がとても褒めていらしたわ」
「お褒めの言葉が頂けたのでしたら、ありがたいことです」
「ねえ、これ、あたしが貰ってもいいの?」
「ええ、もちろんですわ。台輔に似合う連珠をと思って造ったものですから、台輔につけて頂くのが、その連珠にとっても一番の幸せでございます」
「そう?じゃあ、ありがたくもらうわね」
嬉しそうに言う氾麟に頷き、加奈子は手元に持った加工途中の玉を見る。
範に来てから色々と学んだ。
装飾品以外にも、冬器から紙に至るまで、学べるものは何でも学んだ。
しかし元々装飾品を主に手がけていた匠師であったため、やはりそちらを伸ばすのが良いと、判断が下された。
戴にいた頃のように、装飾品の加工や、模様や形の着想を任され始めると、瞬く間に才華を見せる。
氾王の見抜いた腕は、見事この地で開花しようとしていた。
「でも、主上には何も造らないの?」
小首を傾げて言う氾麟に、困ったような表情で答える。
「主上のは…難しいのです。何でもお似合いになりますでしょう?台輔の物ですと、愛らしいものや、かわいらしいものでしたら何でもお似合いですけど、やはり柔らかい印象が先立ちます。決して鋭利ではいけない、では丸くしようと言う具合に、構築していくことが可能なのですが…主上となると…」
「丸い物でもお似合いかしら?」
「台輔がおつけになるような物は少し違いますが、まったく似合わないと言うこともございません。それにご自分で色々組合わされますから…」
「だから余計に迷う?」
「ええ。主上にしか似合わない物。それでいて、最高に似合う物。それが難しいのです」
「ふうん、なるほどねえ」
の悩みが移ったのか、氾麟は難しい顔をして腕を組んだ。
そのまましばらく考え込んでいたが、やがて降参したように手を挙げて言った。
「駄目、分からないわ。でも、貴女が造る物なら、何でもお喜びになるわよ」
「そう、でしょうか…?」
「そうよ。だってこんなに素敵な物を作れるんだもの」
「ありがとうございます」
嬉しそうに去っていく氾麟を見送りながら、はふっと息を吐いた。
この国に来て、王に似合う物を造りたいと常に思っていた。
だがそれを形にする事がどうしても出来ない。
仮に他の人物を思い浮かべて創作にかかると、さほど悩まないと言うのに。
「ふう…」
大きな溜息を吐きだしたは、持ったままの玉の加工を再開した。
せめてこれが、良き答えになってくれればと。
そんなある日、は王に呼び出されて内宮に来ていた。
戴でも入った事のなかった内宮で、玉のように固くなっていた。
目前の主はそんなに静かな視線を送っている。
呼び出された理由も分からぬは、張りつめた物を緩める手段を思いつかなかった。
何と言ってよいのかも思いつかぬ。
「はまだわたしに慣れぬようだねえ」
が藍滌に呼び出されることは、今回が初めてではない。
だが、戴でもなかった王との空間に、萎縮してしまうのである。
「…い、い、いえ。そんな、違うんです!」
「違う?何が違うのか申してみよ」
はっと口を噤んでみたものの、見透かしたような視線に射抜かれ、他の言い訳がまったく浮かばない。
「その…慣れないと言うことではなくて…いえ、慣れないと言えば慣れないのかもしれませんが…いえ、だからです…決して主上のせいではなく…ただ私が不甲斐ないばかりに、その…」
言い訳を考えている内に、自分でも何を言っているのか分からなくなり、ついには混乱しそうになった。
しかしその様子を静観していた王から、笑い含みの声が発せられる。
「よい。気にすることはない。少し寂しいように思っただけじゃ」
「え?」
「何、ほんの戯れ言じゃ。これも気にすることはない」
気にするなと言われれば、それ以上追求して聞くことなど出来ない。
は早鐘を打っている己の胸元に手を当て、沈めようと試みながら主に目を向ける。
「そう、実はに頼みたいことがあってね」
「は、はい!」
「そう気負わなくて良い」
藍滌はそう言って柔和に微笑むと、に目を向けて静かに言う。
「戴に行ってほしい」
「戴、でしょうか?」
「そう。戴へ玉を仕入れに行ってもらいたい」
藍滌はそう言うと書状を卓子の上から取り上げてに渡す。
訳も分からず受け取ったそれを見て、現在の主を見上げる。
「親書、と言う事になろうかの。が健在であることも報告してくるといい」
「しゅ、主上…。あの、恐れながら申し上げます。泰王に親書をお持ちするには、私では役不足。恥ずかしながら、私は泰王と面識がございません。玉の仕入れならば喜んで引き受けましょうが…」
「あちらの冬官長と面識は?」
「もちろんございます。大司空が快諾して下さったおかげで、私は今この国におります。もちろん、主上がお声をかけて頂いたからに他なりませんが」
「それはよい。わたしが来てほしかったのだからね」
「勿体ないお言葉でございます」
「わたしはね、。綺麗なものが好きなんだよ」
はたと顔を上げた。
そのまま固まったように主を見上げた。
「おや、気に入らないかえ?」
「あ…い、いえ!」
慌てて目を逸らし、顔を伏せて言う。
「私はそれに値しません。主上のように素晴らしい感性を持っている訳ではございませんし、台輔のように愛らしい容姿もございません」
「人を形作るものだけが美しさと思うてか」
その言を受け、は少し考える。
しばらくしてから小さく問う。
「では、美しさとは…心、でしょうか?」
「近いが少し違う。わたしはの能力を買っているのだよ」
「それは…本当に勿体ないお言葉です」
「それが美しいと分かるかえ?」
「私の事はともかくとして、能力がある者は心が美しいと言うことでしょうか?」
「それは一概に言えないねえ。才走ると言うこともある。それが美しいと思うかえ?」
「いえ…では、何が美しいと申されますか?」
「能力のある者は、それに見合うだけの絶え間ない努力を重ねているもの。その努力こそが美しいと思うのだよ、のように」
向けられた瞳が煌めいたように見えた。
同時に高鳴る鼓動が聞こえる。
褒めてもらうのは嬉しい事だが、こういった形でお褒めの言葉を頂くとなると、大きく動揺してしまう。
ただ深く頭を下げて恥ずかしげに謝辞を述べた。
「少し話が逸れてしまったようだね。玉の仕入れじゃが、の心の赴くままで良い。基本は装飾用。数もの采配に任せる。良い玉があれば多くても構わぬし、良いものがなければ、まったくなくともよい。ただし、賓客に渡しても恥ずかしくないものを頼んだえ」
「は、はい!」
まだ初々しい元気な返事をし、はその場を退出していった。
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