ドリーム小説
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海客と海客 〜先輩〜 =11= 庭院を後にした。
先に湯を使い、体を洗っていく。
湯から上がると被衫(ねまき)に着替え、冷たい空気の沈着している臥室(しんしつ)へと足を踏み入れた。
今はまだ湯のおかげで体は暖かいが、時期冷たくなるだろう。
椅子に腰を下ろして髪を梳(と)かし、水分を拭うように布をあてていく。
いつもはこの後、備忘録(メモ)を出し、少し復習して眠るのだが……。
「明日帰るかもしれないのよね。これも……必要なくなるのかな……」
明日、帰る。
それは呪いの言葉のように心に沈みこんでいった。
だから、朱衡は一緒に寝ようと言ったのだろうか。
ただ寂しいのか、最後の思い出のつもりなのか、これまでの代償を求められているのか。
これまで本当に世話になった。
朱衡がいなければ、何倍も苦労を重ねていたことだろう。
庇護してくれる者であったことは間違いない。
家の手伝いをしたからといって、それがなくなる訳ではない。
だが、それが少し嬉しいような気もした。
相手がどう思っていようが、関係ないと思えたからだ。
朱衡が望むのなら、それでもいいと思った。
「私って……矛盾だらけね……」
髪を梳かしながらそう考えていると、朱衡が臥室へと入ってきた。
いつもの袍とは違い、薄手の被衫に身を包む。
見慣れぬものであったが、どこか柔らかい印象をもたらした。
だが同時に、気恥ずかしい思いも湧き出る。
「体が冷えない内に衾褥(ふとん)へ入りましょう」
そう言うと、座っているの側まで歩み寄る。
にこりと笑って手を差しのばす朱衡の表情に、引き寄せられるようにして手を置いた。
軽い力とともに引かれ、立ち上がって牀榻へと進む。
「やっぱり、冷たい……」
衾褥に入ってすぐ、は身を縮めてそう言った。
すると隣から腕が伸びてきて、の体を引き寄せる。
「すぐに暖かくなりますよ」
何も言えずに、は朱衡の胸元に近付いた顔を縦に振った。
薄い被衫のせいで、肌の温もりが伝わってくる。
徐々に暖かくなり始めたのを感じた。
だが伝わるのは温もりだけではなかった。
被衫の薄さは、互いの体の線をも伝える。
痩身である朱衡の腕は、が想像していたものと少し違う。
色白なので、袍の上からはあまり男を感じさせなかったが、さきほどの庭院や今の状況では、鼓動が高鳴るのを押さえる方が難しい。
首下を通る朱衡の腕は、巻き付くように肩へ置かれている。
手も思ったより大きい。
少し顔を上げて、伺うように見た朱衡の顔。
瞳は閉じられている。
形の良い眉にすっと通った鼻筋。
様々な情報をもたらしてくれる唇は、今は閉ざされている。
は急に願った。
この口から音が発せられるのを。
「……朱衡さん」
呼びかけると瞳が開く。
朱衡の顔が下を向いて、瞳がかち合った。
しかしの望んだ声はまだ聞けない。
「あ、あの……」
の言葉を待っている様子の朱衡に、半ば焦りながら口を開いた。
「今日で……最後かもしれないから……だから……」
そこまで言うと、頬が熱くなっているのを感じる。
だが、焦りと照れから口を閉ざすことが出来なかった。
「だから、いいですよ」
何が、とは言わなかった。
いや、言えなかった。
抱かれてもいいと、はっきり言えるほど恋愛に対して経験がない。
しかし朱衡はそれだけで分かったようだ。
「変なところに気を遣わなくとも結構です。互いが必要と感じているのなら、そうなることも可能でしょうが、そうでなければ後悔することになります。わたしではなく、貴女が」
確かにこのような状況下で、男が後悔することなど稀だろう。
だが女は別だ。
しかし拒否の言葉を聞いてしまった心情はと言えば、少し虚しさが残った。
言ってしまった事に対し、すでに後悔しはじめている。
顔を俯けてしまったは、あまり体を近づけないようにして瞳を閉じた。
気を遣った分の距離が、同じ衾褥に入っている二人の間、僅かに出来ている。
「」
ふいにを呼ぶ声。
直後、強く引き寄せられる体を感じた。
の頬は朱衡の胸元に密着していたし、足は絡まるように重なっている。
朱衡の腕はの背中に周り、より引き寄せようと力は増していた。
その行動によって、の心が軽くなった。
拒否ではなく、朱衡の優しさであることを体感したからだ。
さきほどの言葉を考えても分かるはずだったのに、羞恥のあまり気付くことが出来なかった。
は瞳を閉じて朱衡に感謝した。
そして伝えられる温もりに身を任せ、眠りに入っていった。
明け方近く。
寒さであろうか、目が覚めた。
じっとしたまま隣に眠る朱衡を見つめた。
今後どうするべきなのかを、考えねばならない。
しかし選択できる事は限られている。
他人を殺してもいいと思うほどの覚悟がなければ、戻りたいと言えないのだ。
それを強制する事によって六太が苦しむ事も、これまで学んだ知識から分かっている。
朱衡に別れを告げ、六太を苦しめ、見知らぬ誰かを見殺しにする。
そのように考えれば、答えなど一つしかなかった。
肩に置かれた朱衡の手、保たれている温もりを感じながら、再び瞳を閉ざす。
「台輔」
昼過ぎの事。
六太の許へ朱衡が訪ねてくる。
昨日の答えが来たのだと、少し背筋を伸ばして身構える六太。
「朱衡、どうだった?」
「泣き暮らしておりますので、話をなかなか切り出せません。しかし台輔、本当に蝕を起こしてしまわれるおつもりですか?」
「……だ、だって……しょうがないだろ」
どこにどんなしわ寄せがくるのか分からない。
それが蝕だった。
それを考えると気重い。
「説得してみましょうか、彼女を。この世界に留まり、宮城に勤めるように説得すれば、蝕を起こさなくともよくなりますからね」
「ホントか!?」
「折角実った秋の収穫を、蝕によって潰したくありませんでしょう?」
「も、もちろん」
「ではいずれ靖州に戸籍を用意して頂く事になる……かもしれません。まだ分かりませんが」
「説得出来たら、何でも言うこと聞くから!」
「本当ですね?」
「ホント、ホント。絶対に言うこと聞く」
「では真面目に債務をこなされますね。近頃また滞りがちだと、靖州府から嘆きが聞こえておりましたから」
「……ちゃんとやる。今回ばかりは本当に反省した」
うなだれた六太に、朱衡は満足げに微笑んだ。
その日も早めに職務を終え、陽が落ちると帰途へとついた。
「あ……おかえりなさい……」
足取り重く朱衡を出迎えた。
少し様子がおかしいのに気付いた朱衡は、すぐ側に寄って顔を覗き込む。
「どうしたのです?」
「どうも、しないけど……」
近くで見ると瞳が潤んでいる。
顔色は悪く、表情も笑っているわりに辛そうである。
近頃急激に冷えた事と、明け方が考え込んであまり眠っていない事を思い出した。
すっと手を伸ばすと、少し肩を竦めて身を引く。
それでもお構いなしに額へ手をあてた。
の額は、想像通り熱い。
「熱がありますね」
「これくらい、大丈夫よ」
「そのようには見えませんが」
「……」
そっと背中を押された。
それに抵抗する事もできず、ただ促されるまま臥室へと向かい、半ば強引に牀榻へと押し込まれてまった。
「人ですからね。風邪でもひいたのでしょう」
横たわるに、朱衡はそう言って椅子に座る。
「それって、どういう意味?」
「もしここに留まり、仙籍に入る事になれば、風邪もひかなくなります」
驚いた表情で朱衡を見つめる。
「なんだか凄いのね……」
はそう言うと苦しそうに顔を歪めて瞳を閉じた。
相当我慢していたのだろうと予測する。
「、少し出かけて来ますが大丈夫ですか?」
「……平気。少し寝てれば治ると思うから」
「そうですか。ではすぐに戻りますから、ゆっくりお休みなさい」
ぱたりと扉がしまう音を聞いた。
大きな息をついて瞳を開けた。
朱衡が戻って来る前に、自分の異変には気付いていた。
だが倒れては迷惑になると考え、平静を装っていた。
しかしすぐに見抜かれてしまい、気が緩んだのだろう。
無理をしたのは、今のこの状況を恐れたのかもしれない。
体が辛くて眠っている。
家には誰もいない。
朱衡は探してもいない。
助けを求める事は出来ない。
何故なら朱衡と自分とは他人だからだ。
今は一緒に暮らしているが、これも一時的なこと。
帰るにしろ、帰らないにしろ、いずれ一人になる。
そう考えるのが恐かった。
体が弱くなると、気までも弱くなる。
誰もいない房室を見回していると、視界が廻っている事が分かった。
今は何も考えず、眠るのが良いのだと自分に言い聞かせ、すっと瞳を閉じる。
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