ドリーム小説
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海客と海客 〜先輩〜 =12= 夢を見ていた。
現実のような夢を。
朱衡は椅子に座っていたが、乗り出すようにしての手を取り、心配そうに見守っている。
時折額にあてた布を冷たいものと取り替えてくれる。
世界は現実と違って少し霞んでいた。
見える範囲も随分と狭い。
もっとよく朱衡を見ようと、目を見開こうとするのだが、どんなに見開いても視界の霞はとれない。
心配そうだと言うことは分かるのに、どういった表情をしているのかを見ることが出来ないのだった。
「朱衡さん……」
そう呟くのに、声は籠もって聞き取れないほどだった。
しかしここは夢の中。
朱衡は聞こえていたかのように身を乗り出し、に近寄って聞く体勢を整える。
「仙籍に入っている朱衡さんなら、私の風邪を移してしまうことはない?」
ただ頷く朱衡を朧気な景色の中に見る。
「じゃあ、キスしてしまっても、大丈夫なのかな……?」
また、頷く顔が見える。
は衾褥(ふとん)から手を出して朱衡のほうへ伸ばす。
それを受け取った朱衡を引き寄せようと、腕に力を入れる。
しかし全くと言っていいほど、腕には力がなかった。
夢なのだから、もう少し思い通りに運んでくれてもいいのにと、ぼんやり考えていると、朱衡の体が乗り出してくるのが見える。
「キスして……抱きしめて……」
普段ならどんな相手だろうと言えないような台詞を、夢の中で言っている自分がおかしかった。
熱が見せる、特別な夢なのだろう。
『これはきっと防衛本能の一種だ』
そう思った。
辛い中に、救いを求める心の叫び。
それが甘い夢となって現れる。
夢の中の朱衡はの言うとおりに、衾褥の上から抱きしめてくれる。
そっと頬に手を添え、甘い口づけを落としていった。
その瞬間、何か苦いものが喉を通り過ぎていった。
むせそうな匂いのする液体である。
味を実感できる夢など初めてだった。
「」
夢の中の朱衡が名を呼ぶ。
ふと顔を向けると、先程と同じように白くぼんやりした景色。
朱衡の顔が見たいと思うと、徐々にそれは晴れていった。
「」
何度目かの呼びかけで、は瞳を大きく開いた。
はっきりとした視界に、目が覚めた事を知る。
夢の中と同じように、朱衡が近くにいた。
「水を飲みなさい」
「水……」
小さく呟いた声が掠れている。
言われてみれば、喉はからからに乾ききっている。
出された水差しで中のものを飲むと、体に浸透していくように感じた。
喉を通る冷たい水が、今は心地よい。
「夢を……見ていたの」
先程より潤った喉で話す。
朱衡は少し首を傾げてを見つめた。
「とても……嬉しい夢」
そう言うと、は瞳を閉じる。
そこから微睡むような眠りに誘われたのは、幾刹那だった。
夜が明け、目を覚ました。
隣を見ると、まだ朱衡は起きてそこに座っていた。
「朱衡さん……ずっと、ついていてくれたの?」
「いかがですか?お加減は」
「ええ、昨日よりずっとすっきりして、もう大丈夫みたい。熱も下がったようだし」
にこりと微笑んだ顔が、安堵に包まれるのを見た。
は体を起こしながら、昨日言えなかった事を言おうと口を開く。
「もし、私が帰りたいと言えば、あの子は苦しみながらも従うのよね」
切り出された話の内容を、朱衡は瞬時に悟って頷く。
「ではそれをネタに脅し、私を仙籍に入れる事は可能?」
「もちろん可能です。では、雁に仕えると言うことでしょうか」
「……うん」
朱衡はそう言ったの顔をじっと見つめた。
理由などは言わなかったが、すっきりした表情をしている。
彼女なりに悩み抜いて、見いだした答えだったのだろう。
「分かりました。では一週間の内に、すべてを決めてしまいましょう」
「ありがとうございます。あ、それから……少し我が儘を言ってもいいかしら」
がそう言うと、朱衡はにっこり笑って頷く。
「貴女の我が儘でしたら、何でも聞いてさし上げますよ」
一際大きく鳴った鼓動を、聞かなかった事にしては言う。
「できれば……朱衡さんのいる所に配属されたいの。一番下っ端でもいいから、駄目かしら……?」
「もし雁に留まられるのであれば、初めからそのつもりでおりましたよ」
そう言って微笑む朱衡を、驚いた表情のが見つめる。
「他の官府になど、危うくて渡せませんから」
そう言う意味かと、少し落胆しそうになったが、気を取り直して口を開く。
「どうせ初めから迷惑をかけているのだし、このまま迷惑かけさせてください」
おかしな頼み事をして頭を下げた。
それに苦笑したような声が了承を答えた。
それからは早急にあらゆる事が決まっていった。
の在籍する官府、の住む為の小さな官邸。
これから学んでゆかねばならない事も多い。
しかし一度決心した事、簡単に投げ出すつもりもなかった。
どのような祭祀があり、どのように式典を進めて行くのかも学ばねばならない。
梧桐宮(ごどうきゅう)についても覚え、楽士や音楽についても学んだ。
それらを覚えた上で、様々な検討がなされたが、結局は現在人手の足りない史官に修まることになった。
内史が海客だと言うことも、理由の一つではあったのだが。
「史官かあ……色々な記録を取っておいて、歴史を綴っていくのよね」
「そうですね。不安ですか?」
「ううん。楽しそう」
今日は初めて内史と対面する日だった。
内史は海客であると聞いており、少し緊張するような気もしたが、その日から初めて仕事に就くにとっては、気にかかる事が仕事のほうに傾倒していた。
まだ見慣れぬ宮道を、朱衡に着いて歩くことしばし。
春官府の一郭にあたる大きな扉の前で朱衡は止まった。
「ここが……」
壮麗な門を潜るような心境で、開かれた扉に入っていく。
「大宗伯」
中に入るとすぐに男の声がして、朱衡の背後から覗き見る。
立ったまま深く腰を下げる男が目に入った。
その男はゆっくり体を上げると、朱衡に目を向け何かを言いかける。
しかしに目を向けて驚いたような表情になった。
「……。じゃないか?」
よりも少し年下に見える、若い男の官吏だった。
は相手の顔をまじまじと見つめた。
しばらくして、ようやく口を開く。
「山岡くん……?まさか……」
「やっぱり、だ!まさか新しく入ってきた海客がだなんて……驚きだな。こんな偶然って……あるんだな」
小学二年の時、同じクラスにいた山岡 亮(やまおか あきら)。
虐めにあって、そのまま姿を消した彼。
まさかと同じように、こちらに来てしまったのだとは思ってもいなかった。
「お知り合いですか?」
朱衡の声が山岡とを現実に引き戻した。
「はっ、大宗伯。そうなのです。同じ学舎に通っておりました。一年と少しの間……。ですが……もう、随分と昔の話です」
「では、も心強い事でしょう。海客にしか分からない類の悩みも相談出来ましょうし。では岡亮(こうりょう)、をよろしく頼みましたよ」
「はい。お任せ下さい」
山岡がそう言うと、朱衡は驚くほどあっさりその場を離れた。
はそれに少し驚いて、引き留めようと口を開けた。
殆ど荷物のないの身辺を気遣い、必要な物を朱衡は揃えてくれた。
新しい官邸にすべてを運び込み、生活の基盤は出来た。
だが昨日までは朱衡宅に世話になっていたのだ。
離れがたい心境も、もちろんあった。
それが今日から別々になる。
は新しい官邸に帰る事になっている。
ゆえに今が朱衡と話を出来る、最後の瞬間かもしれなかったのだ。
別れの挨拶ぐらいしたいと思った。
しかし山岡が話しかけて来たことによって、それは叶わなかった。
「本当に久しぶりだな。俺の一番嫌な時期を知ってるお前が、まさか俺の下につくなんてな。ああ、勘違いしないでくれよ。恨み言じゃないからな」
「山岡くん……。蝕に、遭ったの?」
久しぶりに会う山岡の話も気になるが、あっさり消えてしまった朱衡の方に気持ちが向いている。
「……ああ。巧って国に流れ着いた。あそこは海客に厳しい国だから、なんとか逃げて雁に庇護を求めた。この国は王も宰輔も海客だからな、理解があるんだろう」
そう言うと山岡は少しの間黙り、急に笑って言った。
「俺さ、実を言うと嵐の日にさ、自殺しようとしたんだ」
「え……」
突然告げられたその事実に、は朱衡の事から意識を逸らし、山岡の顔を見かえした。
「俺、虐められてただろ?それで自殺しようと思って外に出たんだ。凄い強風の日でさ。崖から一気に飛び降りて、ああ、これで俺の人生は終わったって思ったんだよな。でも、気が付いたからこっちに流れついていた。そうしたら海客だって追われるし、変な生き物は見かけるし、言葉なんてまったく分からないし」
「そう……苦労したのね。“こうりょう”ってのは?」
「山岡 亮だって名乗っても、どうにも言いにくいみたいでさ。それで気が付いたら山が消えて岡亮になっていた」
すでにこちらに馴染んでいる様子が心強い。
「は?やっぱり嵐か?」
「私は……」
はそう言って、正直に言うべきかを迷った。
いつか朱衡が言っていた言葉を思い出したのだ。
極めて幸運だったと言っていなかったか。
「強い……風……かな」
「そうか。俺の時も強風だったからな。でもこっちに来てから、本当に死ぬって事が、どれほど恐怖か初めて知ったよ。それでまず言葉を覚えて、生きる方法を模索し始めた。自殺なんてどうしてしようと思ったのか、今じゃ不思議なぐらいだ。で、海客が生きていく事が、俺の流れ着いた里では難しいって知った。それで身一つで旅に出て、色々街を廻った結果、流れ着いた里が海客に厳しいんじゃなくて、巧って国が厳しいんだと悟った。ああ、お隣の慶もな。でもその道中、死なない種類の者がいる事を知った。だから雁についてから努力した。ま、勉強はわりと得意だったからな。仙籍に入れてもらって、ここでこうしているって訳だ」
山岡が春官に入った頃、内史はまだ前任の者がいた。
しかし人手が足りていないと言うこともあり、内史の補佐としてしばた。
しばらくすると前任の内史が辞め、その人物の選挙で内史に納まった。
「そう……大変だったのね」
「まあ、今となってはいい思い出さ。あんな状況でも生きてこれた。だから努力して来られたし、今が幸せだと思うんだよ」
そう言うと、山岡は気が付いたように手を打ち付けた。
「そうだ、やることを教えないとな。はこっちへ来てどれぐらいになる?読み書きは出来るか?」
「ほんの……少しだけなら」
「そうか。史官は色々な物を記録していかなければならないからな。まあ、初めは日本語で書いた物を変換してくといい。分からなければ俺が教えるからさ」
「あ……ありがとう」
今まで教えてくれるのはいつも朱衡だった。
それが山岡に変わるのが、何故か少し寂しい気がした。
同じ蓬莱から流れてきた者同士、朱衡に教わるよりずっと効率が良いはずだというのに。
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