ドリーム小説
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海客と海客 〜先輩〜 =16= 「大宗伯、まだいらっしゃいますか?」
春官府の一郭、朱衡の詰める場所へと向かった。
しかし中から返答はない。
朱衡は後宮でも政務を執るから、そっちへ出向いているのかもしれない。
あるいは王に呼ばれて内殿に居るのかも。
いずれにしろここにはいないようだった。
「失礼します」
扉を開けながらそう言って中へと進む。
奥に見えている椅子は、いつもの主を待っているように少し斜めを向いていた。
急なことでもあったのだろうか。
それともすでに帰ってしまったのか。
ふっと安堵の息を吐き出す。
山岡の言った事によって、変に意識してしまいそうだったから、今日は会わなくてよかったのかもしれない。
卓子の上に書面を置き、そのまま退出して帰途へとついた。
外に出ると、世界の色は紺碧であった。
西を見ると地平が僅かに紅を帯びている。
いつの間にか見慣れてしまったその風景。
この宮道も、庭院も、雲海も。
見慣れたと実感するだけ、喪失が目に見えるようだった。
この景色に見慣れたぶん、過去の世界を失っていく。
そんな気がした。
もう春が近い。
それでも風は冷たく裾を攫う。
一つ身震いをして、居院へと急いだ。
外朝に出た所で、山岡と出会った。
「よお、奇遇だな。大宗伯はおられなかったか」
「ええ。そのまま置いて出てきたわ」
「そうか。なあ、関弓へ降りてみないか」
「関弓に?いいけど……何かあるの?」
「飲み屋」
「飲みに行くの?今から?一緒に?」
「お前な……嫌なら嫌って言えばいいだろうに、そんなにいっぱい疑問を飛ばすなよ」
は盛大に顔を顰めた山岡に笑って言う。
「いいわよ。もう終わったし。それに明日は朝議に出なくてもいい日だしね」
「お、そうこなくっちゃ」
嬉しそうに下山し始める山岡に着いて歩きながら、は不思議な感覚に囚われた。
小学校の頃しか知らない山岡と、酒を酌み交わす日が来るなど、思いもよらなかった。
長年付き合ってきた友人であったのなら、一度ぐらいは想像したかもしれない。
しかし山岡ではそれが不可能だった。
それは山岡が蓬莱から姿を消したからだ。
確実に接点は途絶えていた。
大人になった山岡と酒を酌み交わす。
これが出来るのは双方の世界で、ただ一人だと言えよう。
ある意味で、山岡が言った事は正しいのかもしれない。
海客同士結婚しようというのは。
そうすれば、同じ辛さを共有する事が出来る。
同じ故国を持ち、近しい想い出を持っている二人なら……。
しかしはそう言った意味で山岡を好いていない。
男や女としてではなく、あるいは同じ海客としてでもなく、ただ一個人としての感情では好いていると言って良い。
だがそれは、山岡の人柄が好きだと言った、簡単な気持ちだった。
酒を酌み交わすような年ではあっても、そんな感情で一緒になる決意ができるほど、老いてもいない。
また、それが分からないほど若くもない。
「そう言えば、結婚している人って少ないんじゃない?」
関弓の飲み屋で、熱い酒を注ぎながらは言った。
つまみを口に放り込んだ山岡が宙に目を向けて考える。
すぐに頷いて答えた。
「野合が多いな。戸籍が定まってしまうと厄介だから」
「野合ってなに?」
「ああ、きちんと届けを出さない結婚の事だな。一緒に住むが籍は入れない」
「同棲の事?」
「蓬莱ではそう言うのか」
「どうして厄介なの?」
「うん、そうだな……」
山岡は考えながらまた一つ、つまみを口に放り込んで噛み、飲み下してから口を開いた。
「戸籍ってのがあってな、婚姻する時にはどちからの籍に入らなければいけないんだ。籍は動かすことが出来ないものだから、官吏同士の場合、昇進の妨げになる事がある。だからどうしても野合が多くなるんだ。婚姻しているのは、伴侶が官吏ではない場合が多いかな」
「へえ……そうか。婚姻によって枷が出来るのね」
「まあ、そうゆうことだな。だからお前も、昇進したかったら婚姻は避けたほうがいい」
「じゃあ山岡くんもそうなんじゃない?」
「まあな」
短く同意した山岡は酒を煽りながら笑う。
「からかったのね。酷い」
「そうでもないけどな。何しろは俺の初恋の人だし」
「まさか。小学二年で初恋なんて早いわよ」
「みんなそんなもんだろ?そうゆうはいつだったんだよ」
「私は中学校の時」
「それは遅い。俺が普通だと思うけどな」
そうかな、と言いながら、も酒を煽った。
酒杯は小さい御猪口のようであったため、嫌でもそのような飲み方になってしまう。
「みんなそれぞれいたのかもな。もちろん野合でだけどな。特に太宰や大宗伯は長く生きている。寂しいだろうさ、ずっと一人なら」
「ああ、そうか……そんなに……生きているのね、あの人達は」
王や宰輔もそうだ。
春官府にも三百年を越えたと言う者がいる。
通常なら、百年も生きれば大往生であろう。
それがさらに五倍だという長さ。
それは想像する事も出来ない。
長い年月が黒い影を落としていくことはないのだろうか。
の心を読んだのか、山岡は感慨深げに口を開く。
「あまりに生が長いと、何かが噛み合わなくなるのかもな。だから王朝は滅びる。どこの国でも衰退をくりかえしているんだ」
それを五百年間の長きに渡り支えてきた者達。
五百年生きていると言った朱衡は、やはりこの王朝の始まりからいたのだろう。
あの王や宰輔と供に歩んできた。
「だから、今は大宗伯なのね。ああ、太宰もそうかしら」
「どう言う意味だ?」
「五百年間、玄英宮にいたから、大宗伯なんじゃないの?生きる事に飽いて辞める人や、折り合いが付かなくて辞める人も中にはいたでしょう。全員が五百年変わっていない訳じゃないでしょう?どんどん上の人間が辞めていく。それをじっと堪えて待っていたから、大宗伯になった」
「ああ、それは違う」
山岡はそう言ってに説明する。
「大宗伯は元々史官だったらしい。しかも国官じゃなかった。だけど主上が登極してすぐに秋官へ移動し、五十年だかにはすでに大司寇であったそうだ。大宗伯に就かれたのは雁が百年目を迎えた頃で、それからも六官長を中心に転々として、今はまた大宗伯の任についている、と言ったところだな」
は素直に驚いて山岡に言う。
「じゃあ、エリートだったわけね」
「そう、選良だった……」
山岡はそれを受けて笑顔になり、何かを言いかけた。
しかし顔を元に戻し、ことり、と木の卓子に酒杯を置いて呟くように言う。
「……いや、やめた」
「?」
「恋敵の肩を持っているようで、なんだかいい気がしないな」
そう言うと酒を注いで笑う。
も愛想で笑ったが、笑っていいのかどうかは分からなかった。
「顔が引きつってるぞ。ま、早く俺の冗談に慣れるんだな」
山岡は空いたの杯に酒を注ぎ込んだ。
ずっとからかわれていた事を知ったは、大きく息を吐き出して力無く言う。
「精進します……」
大きな笑い声がそれに答えた。
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