ドリーム小説
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海客と海客 〜先輩〜 =19= その日の帰り。
外朝でまたしても山岡にあった。
「よう。ちょっとつきあわないか」
「何処へ?」
「関弓」
「ははあ、また飲みに行くんでしょう」
「まあ、な。でも今日は特別だから」
「何が特別なの?」
「昇進祝いだよ。の」
「え?いいわよ、そんなの」
「いいから。これから上に立つ奴に恩を売っとかないとな」
そう言って歩き出す山岡。
はそれに苦笑しながら後を着いていった。
同じ外朝に住む山岡とは、こうやってたまに遭遇する。
いつの間にか、行く店も決まっていたし、頼むものも決まっていた。
今日もまた、同じように注文をして酒を注ぐ。
小さく乾杯をして酒杯を煽った。
「いや、それにしても早かったな」
そう言って酒杯を置いた山岡に同意して言う。
「本当に……。もう七年も経ったのね」
「ああ、そうじゃないんだ」
手を振って否定する山岡に、はきょとんとして目を向ける。
「いや、確かにがここに来てもう七年近く。学ばねばならない事を、これだけ急激に詰め込まれてよくついてこれる。大宗伯は、始めからそこを見抜いていたのかもな。はじめは内史府へ入れ、俺が補助してやれるような位置に就けた。だけど実際、俺が補助できた事なんてほんの僅かだ。ある程度知っているのに加え、飲み込みが早いから教えていても可愛い気がない」
わざと大きく溜息をついて見せた山岡に、は口を尖らせて言う。
「なんですか、それは……嫌みですかね」
「嫌みも言いたくなるってもんだ。この七年間、さんざん口説いてきたってのに、一向に振りむいてもらえないんだもんなあ」
「またそんなこと言って。さすがにこれだけ続くと慣れるわね」
「冗談じゃないぞ」
「はいはい」
いっこうに山岡の方を見ない。
空になった自らの酒杯に酒を注いでいる。
こういった会話は、この七年間で何度かあった。
今更動揺するような内容でもない。
朱衡が好きだと気付いてから、この手の山岡が言う冗談を真に受ける事はなくなった。
これは慣れて来たなと思った山岡が多少過激な事を言っても、すでに流す術を覚えている。
しかし今日はそれっきり、口を閉ざした山岡。
しばらくして他愛もない会話を再開させた。
店を出て関弓山を登り、外朝の一郭で別れる直前。
山岡は立ち止まってに向きなおった。
「俺はが好きだ。もう随分と前から」
山岡の真剣な眼差しが、射抜くように向かっていた。
突然何を言い出すのかと、目を見開いた。
しかしはその目をすぐに真っ向から受け止めた。
ややして静かに首を振る。
「違うわ。あなたが私を好きだと思っているのは、ある種の錯覚よ」
山岡がに求めているもの。
それは寂しさを紛らわすだけの存在ではなかろうか。
郷里に思いを馳せ、供に語らう事の出来る唯一の同胞である。
それの損失が恐いのだろう。
山岡はおそらく今、が大きな転機を迎えているように感じているのではないだろうか。
このまま山岡の知らない、遠い存在になってしまうのではないかとう危惧が心を占めている、そのような印象を受けた。
そんな山岡の心中を見透かしたように、は言を綴る。
「それは杞憂よ。どれだけ長い期間この国にいようと、私が日本で生まれた事実はなくならない。それと同じ生まれを持つ、唯一の同胞の事も、私は忘れない。例え他国に渡ろうと、それは変わらないわ。でも私はこの国にいる。そして春官府へ毎朝行くのよ。きっと、それも変わらないわ」
そう、朱衡が大宗伯で有り続ける限り、それは変わらないはずだ。
何故なら朱衡に頼んだからだ。
同じ官府に勤めたいと。
「そうか……やっぱり、伝わらないか。いや、の言うことの方が正しいのかも知れない。だけどまあ……好きだってのは本当だからな。それが錯覚であろうとなかろうと、そんな事は関係ない」
「そんな言い方をするのは卑怯よ」
「そう……かな」
ふっと笑った山岡の顔が、これまでに見たことがないほど悲しげに映った。
しかしそれは幾刹那で消え去り、笑顔に変わってに向かう。
「お前も、早く全てをぶつけてこいよ。すっきりするぞ」
「え……?」
「せっかく大宗伯のお側にあがれるんだからな」
山岡はそう言うと手を挙げて踵を返した。
今までいわれた言葉の中で、これほどまでに呆然とする事があっただろうか。
全てを山岡は分かっていた。
を見ていて、分かってしまったのだろうか。
それが何やら気恥ずかしいような気もした。
外朝の一郭に佇んだまま、動けないでいた。
七年前の同じ季節であることを急に思い出した。
「そっか……もう、七年になるんだ」
自らの口をついて出たのは、いかにも寂しげな声だった。
しかしその心情はと言えば、大きな変化はない。
ただ、年数になおして実感しただけのこと。
「そう言えば……御史の引継はいいのかしら」
誰もいない途を歩きながら、そう呟いた。
だが、引継などいつでも出来るだろう。
春官府を離れるわけではないのだから。
そう考えて、ふと足を止める。
「あ……書面を忘れて来たわ」
小宗伯へ任じられると聞く前、右の卓子に置いたままの書面。
荷物だけを取って退出してきたのだと、ようやく思い当たった。
慌てて山を登る。
急いで内史府へと戻っていった。
「ああ、よかった……」
しんとした内史府の一郭。
暗がりに灯りを点した中、卓上に書面を見つけた。
あまり人に見られてはいけない類の書面だった。
しかしそこには倭の言葉を綴ってある。
読まれても分からないだろうという考えが迂闊な行動をとらせた。
書面は風のせいか、卓上に散らかっている。
ざっと一纏めにしたは、書面を脇に抱えてそこから出た。
「こんな夜中に、何をしているのですか?」
「きゃあ!」
突然かけられた声に、文字通り飛び上がって驚いた。
ばさりと音を立てて落ちた書面を慌てて拾うに、小さく笑う朱衡の声が響く。
「驚かせてしまったようですね。おや?」
振り返ったの顔を見た朱衡は、一歩前に出て近付く。
朱衡であったことに安堵して、息を吐き出していたもそれに気付いて顔を上げた。
すると朱衡の顔が間近まで迫ってくる。
驚きと緊張で固まっていると、口元で朱衡の動きは止まった。
「ああ、御酒を飲まれているのですか?顔が赤いので体調でも崩したのかと」
「あ……いいえ。そんなことは……」
誰もいないと分かっていながら、春官府であることが通常の言葉を隠した。
「内史に祝ってもらったのですね」
「ど、どうしてご存じなのです?」
「おや、当たりましたか」
はっと口を噤んでもすでに遅い。
あらぬ誤解をされたくはないのだが……。
「お、同じ海客ですから……」
「そうですね。忘れ物ですか?」
「あ……ええ。書面を忘れたのを思い出しまして」
「明日でも良いでしょうに」
「忘れた私が迂闊だったのです。人に見せても良いものではありませんから」
しかし、とは続ける。
「清書が終わったら、新しく御史となる方に渡し、最終的には大宗伯に見て頂かないといけません」
「そうですか。では今お預かり致しましょうか?」
「春蚓秋蛇(しゅういんしゅうだ)でございます。とてもお見せできる代物ではありません」
「の文字なら、存じ上げておりますよ」
そう言ってにこりと笑う顔。
ああ、この笑顔にやられたのだ、と今更ながらに思った。
気を抜けば見惚れてしまう自分を叱咤し、紛らわすように口を開く。
「これは倭の言葉で綴ったもの。春蚓秋蛇を差し引きましても、大宗伯では読むことが出来ないでしょう」
「では大人しく清書を待ちましょうか」
「そうして下さいませ」
微笑んで返した顔がまだ赤かったが、それが酒によるものなのか怪しいものだった。
「大宗伯は、こんな時間まで何をなさっておいでですか?」
「終わらない書面を片付けておりましたよ」
「こんな時間まで……大変でございますね。私に何かお手伝いが出来ればと、常日頃思っているのですが……」
それは本当の事だった。
朱衡はよく遅くまで春官府にいる。
自宅に帰っているのだろうかと思うことすらあった。
だから、は朱衡の自宅を出てから、そこを訪ねた事がない。
いないと思っていたから。
もっとも、仮にいたとしても用事がなくては訪ねにくいのだが。
「明日から、手伝ってもらうこともあると思いますよ」
「はい。足手まといになるかもしれませんが、よろしくお願い致します」
「岡亮(こうりょう)に無理して頼んだのですから、期待しておりますよ」
「う……は、はい」
急激に重責がのしかかってきたように思った。
国の機関は六で分けられる。
春官府はその一。
国の六分の一を背負うような、そんな錯覚がしたのだった。
「、責任はわたしが負います。だから気負わずとも良いのですよ。今まで培(つちか)ってきたものを出せば、貴女なら大丈夫です」
「はい……。あの、大宗伯」
小首を傾げた朱衡が、問いかけたを見つめる。
瞳を逸らさねば、口を開くことが出来ないと判じたは、慌てて俯いた。
「何故、私を小宗伯に?今まで空席だと伺ったのですが」
「適任がいなかったから、空席であったのです。一つの事に集中し、それを成し遂げる能力はそれぞれ卓越しておりますが、広く物事を見ることの出来る者が、今の春官にはおりません。貴女がまだ文字を覚えるのに必死だった頃、その能力を垣間見たのです」
「私が……?それが本当でしたら、大変嬉しく思います。そのご期待を裏切らないよう、頑張っていきます」
照れたように微笑んだ顔は俯いていたが、その表情は頬の線から容易に分かる。
「では明日から、しっかりと頼みましたよ」
はいと歯切れ良く答える声を最後に、は春官府から退出していった。
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