ドリーム小説
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海客と海客 〜先輩〜 =20= 小宗伯としての初日は、その実務内容を聞くだけで終わりを告げた。
陽が暮れてすぐ、朱衡は帰りましょうと言って身支度を始める。
昨夜遅くに会った事を思い出したは、ふと妙な事に気が付いた。
遠くから朱衡を見ている限り、この時間に切り上げることが出来るのは稀ではなかろうか。
それは小宗伯が今まで空席であったからかもしれないが、それでもこの時間は早すぎる。
「大宗伯、私ならまだ大丈夫ですよ。やることがあれば、なんでも仰って下さい」
「今日のところは何もありませんよ。内殿には今朝方行って用事を済ませておりますし」
「そう……ですか?」
小宗伯に納まったとは言え、まだ何も知らない新米である。
これが平常なのかも分からないでいた。
しかし帰る用意をやめない朱衡に添い、も身支度を始めた。
黙って手を動かしていると、また一つ妙な事に気が付く。
がまだ朱衡宅で世話になっていた頃、朱衡は陽が暮れると必ず戻って来た。
どうしてそんなことが出来たのだろうか。
夜中に出かけた気配もなかったのだが。
そう思って朱衡の帰り支度を見ていると、いくつかの書面を抜粋して纏めているのに気が付いた。
持ち帰って続きをするのだろう。
ではあの時も……。
「あの、大宗伯……」
手を止めてを見た朱衡。
何事かと問いたげな瞳だけがに向かう。
「私がまだ……大宗伯のお宅にお世話になっていた頃のことですが……。やはりこれくらいから帰り支度をはじめていたのですか?」
「そうですよ。それがなにか?」
「い……いえ。聞いてみたかっただけですので、お忘れ下さい」
そう言うと、朱衡は小さく笑う。
「あの頃を思い出すと、見違えるようですね、貴女は」
「そう……でしょうか」
「もう、誰の庇護もいらない、立派な官吏におなりですよ。ただ……」
言葉を切った朱衡に、今度はが問いたげな瞳を向ける番だった。
しかし朱衡はそれ以上口を開かず、微笑んだだけで答えとした。
その日の帰り、が大きな溜息をついた事は言うまでもなかった。
「あんなに近くにいるのに……」
何故か以前よりも遠くに感じたのだ。
どこか他人行儀な気がした。
しかしそれはこちらも同じだと言うことに、は呆れるほど無自覚だったのだが……。
決して崩さない言葉遣いに加え、遠慮が塊のように周りを覆う。
気遣いが行き過ぎて、逆に素っ気ない印象を与えていた。
しかし債務に慣れるまではまだ必死であろうし、そこまで気付くにはもう少し時間がかかるのだった。
そして一年が経過した。
一年前、小宗伯に任じられたばかりの頃。
万事において慣れたといえるだけの時間が過ぎれば、忙しさもましになるに違いないと思っていた。
しかし、当初は日暮れと同時に帰っていたも、仕事を把握する内にそんな事は出来なくなってしまった。
朱衡の負担を減らすべく自ら残り、書類を捌く手つきは慣れたものであったが、一向に減らない書面に辟易(へきえき)することも多い。
大宗伯の裁可(さいか)をもらわねば進まない事も多い中、その大宗伯が内殿へ向かって戻ってこない。
辛抱強く待っていたこともあったが、今ではもう内殿へ赴いて裁可をもらったほうが早かった。
内殿は簡単に入る事ができない。
行ける所まで進み、取り次ぎを願って待つ。
ただでさえ時間が足りないというのに、待っている間は無為に時が流れる気がして苛立った。
ついにある日、内殿へわざわざ赴かねばならないのは主上や台輔のせいですと、双方を目前に啖呵をきった。
しかし王はそれを笑って受け止め、以来内殿へ進む事を許された。
しかし頭が痛いのは、王と宰輔である事に変わりはない。
朱衡が戻って来ないのはあの二人のせいでもあるが、これはが内殿まで行くことで多少緩和されている。
だが祭祀のおりに姿が見えないとなれば、春官あげての大騒動である。
結局天官などをも巻き込んでの事態になるのだ。
祭祀というものは、国家の安全を祈願するものであり、豊作を願うものであり、王が必ず必要なものである。
しかし、その肝心要の王がいない。
御史や史官であったのなら、招集に応じて探すに留まるのだが、今、は招集する側だった。
宮内にいないと分かれば夏官府まで駆けて行ったし、自ら探しに下山する事もあった。
「これだけ気苦労を重ねているんだもの。普通なら、私はとっくに白髪に染まっているわ!」
精神的にため込んでいるように見えたのを気遣ったのか、慰労と称して朱衡宅に呼ばれた。
月でも見ながら酒を飲もうと言う事だった。
「だいたい、どうして五百年も生きているのに、祭祀の日を覚えていないのよ!」
誰もいない空間に向かって、怒気を叩きつける。
月の洗う景色の中であっても、情緒など微塵もなかった。
「、外に聞こえてしまいますよ」
「構いません!」
しかしそれを最後に、は声を張り上げるのを止めて座った。
大きな銀の酒杯を両手で包むと、それを見つめながら言う。
「大宗伯がそれによって、被害を被っているのが許せないのです」
「……ありがとうございます」
にこりと微笑んだ朱衡がを見つめる。
それを見たのは刹那であったが、瞬く間に怒りが消えるのを感じた。
酒杯に目を戻して言葉に詰まった。
ややして思いついたように言う。
「台輔に関しては……私のせいかもしれません」
「それは?」
「西宮へ詰めていた頃、もう気にしていないって言ってしまったから。だから近頃また、抜け出すようになったんだわ」
「それは関係ないと思いますよ。あの方々は誰が何を言おうと、堪えられなくなれば逃げてしまいます。反省したところで、それが薄れれば同じ事ですから。尤も、蓬莱へ渡る事はしばらく止めているようですが」
「そう。でも……それもいつかは再開するんでしょうね。私のような例は作らないように注意して行くんだわ。悪いことをしてなきゃいいけど」
「本当に……」
つかれた溜息は二人分。
冴えてきた秋の夜風に攫われた。
「ああ、そう言えば」
ふとは顔を上げて朱衡を見る。
くすりと笑うと行った。
「今日、怒りにまかせて卓子(つくえ)を叩いてしまったら、主上から卓子が減ると大きな溜息をつかれたの」
その場面には居合わせていないなと、朱衡は首を傾げて続きを待つ。
「あんまりにも大宗伯が卓子(つくえ)を叩くから減った。それを更に減らそうと言うのか。そのような事を仰ってたかしら」
「どうやらは、わたしと似たような気性を持っているようですね」
何やら嬉しそうに言う朱衡に、は嬉しいような、恥ずかしいような、どちらともつかない視線を向けた。
この八年間、何の進展もなかったが、一年前からは側にいることが多くなった。
今はそれでも良いと思っていたのだが、こうやって朱衡宅で向き合っていると、それ以上を望んでいる自分を自覚する事もしばしばある。
その思考をうち消す為か、軽く首を横に振った。
酒を飲んで誤魔化した。
それから数日もしない頃だった。
梧桐宮から慌ただしく駆けつける者があった。
丁度その時、は朱衡と二人で債務に追われており、息を切らせて入ってきた官を見て手を止めた。
どうしたのかと問うたのは、朱衡が先だった。
「大宗伯!ああ、小宗伯も。たった今青鳥が到着致しました。横流郷(おうりゅうごう)付近で大きな蝕が起きたようです。郷城から救済を求める知らせです」
蝕、とは小さく呟いた。
自らは経験したことがないものの、背筋が張り付いたような錯覚を覚えた。
「被害は」
朱衡が少し緊張した声で言う。
「幾人かが虚海へ流されたようです。蝕は北方へ抜け、沛乎島(はいことう)を経由して戴へ進んだ様です」
「横流郷と言えば、確か慶の近く……」
が考えるようにそう言うと、梧桐宮から駆けつけた官は頷いて答えた。
「そうです。高岫付近になります。慶国の様子は分かりませんが、横流郷からの知らせによれば、かなり大規模のものだったのだとか。沛乎島にも被害が及んでいるのは確実のようです。遠目に見ても島が抉れたように見えるのだとか」
そうですかと言いながら立ち上がった。
大きく息を吸ってから言った。
「では慶国へも確認してみる必要があるでしょう。それと夏官に頼んで沛乎島へ人を送らねばなりませんね。主上へは……」
はちらりと朱衡を見る。
視線に気付くまでもなく、朱衡も頷いて立ち上がった。
「申し上げて参りましょう。、今後の采配もありますから、一緒に内殿へ」
「はい」
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