ドリーム小説
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海客と海客 〜先輩〜 =25= 山岡と別れて自宅へ戻ると、大きな息を吐き出した。
朱衡から逃げだしてしまった事を今更後悔し始めている。
ただ動揺しただけではない。
なぜ口づけられたのか、その理由を聞くのが恐かったのかもしれない。
偶然にも山岡が声をかけてきたのを、戻らずそのまま逃げる口実にしてしまったような気がした。
そろそろ、決心しなければならない時期に来ているのだろうか。
それから数日が経過した。
問いただそうと思っていたは、未だそれが出来ないでいた。
なかなか良い機会がないのだ。
そんな最中、債務の合間を縫って、後輩の見舞いに出かける。
これは毎日していた。
合間を縫っても一日一回が限界。
それも夕方以降になってしまう。
蝕の影響がここにまで来ていたせいだ。
朱衡とすれ違う事も多い中、忙しさが重なると絶望的だった。
日をあければ、それだけ聞きにくくなることは分かっているのに、どうにも聞く事が出来ない。
その内、逃げた事を誤解しているのではないかと不安にも見舞われたが、それもまた、確認する術(すべ)がなかった。
毎朝、今日こそはと意気込んで行くのだが、いつも機会がない。
「でも、今日こそは!」
そう言って朝の支度をしている所であった。
けたたましく自宅へ訪ねて来る者があった。
何事かと出てみると、そこには蒼白の面で立つ偃松(えんしょう)がいた。
「偃松……?どうしたのですか?こんなに早くに」
「小宗伯、内史が、内史が……」
「内……山岡くん?どうかしたの?」
「内史が亡くなられました……」
「亡く……」
そこで絶句してしまった。
偃松(えんしょう)が何事かを言っていたが、今のには聞こえていない。
「宗伯……小宗伯!」
呼ばれて我に返る。
偃松を見返して素早く問うた。
「大宗伯には」
「まだ、伝えに言っておりません。先にお伝えしようと……ともかく来て下さい」
「分かりました……。でもすぐに大宗伯にも知らせを。私は春官府へ参りますから」
そう言ってからふと考え直し、偃松に問いかけた。
「それで、大丈夫ですか?」
「は、はい。かしこまりました。では春官府で」
ひとまず偃松(えんしょう)と別れ、急いで身支度を整え自宅を出た。
春官府へ駆けて辿り着くと、まだ朱衡の姿はない。
しかし待ちかまえていた偃松(えんしょう)がを内史府へと連れて行った。
「内史はどこに……」
不安げに言ったに、偃松(えんしょう)は衝立を指さした。
さも恐ろしいものでもあるかのように、偃松の指先は震えている。
「内史は……どこにいるの?」
「奥……奥です。あの、奥……」
やはり衝立を指す震えた手。
は不安に締め付けられながら衝立に向かった。
そっと覗くと、檜皮色が目に映る。
袍の端だというのはすぐに分かった。
「……!」
胸を鷲掴みにされたような痛みが走った。
見るのは恐ろしかったが、そのまま見ない訳にもいくまい。
は息を飲み込むと、衝立に手をかけて奥に足を踏み込んだ。
「山岡くん……」
朱に染む中、静かに横たわる見知った顔がそこにはあった。
「血が……これは、何……どうして血なんか流しているの……?」
しかしの悲鳴にも似た言に、偃松(えんしょう)からの返答はない。
「ねえ、山岡くん、目を覚まして。どうして倒れているの?ねえ……」
肩に手をかけて揺すってみたかったが、動かしてはならないと判じてそれはなんとかせず、もう少しだけ近寄った。
苦しそうに眉を寄せた、青い横顔がちらりと見える。
一体何があったと言うのだろうか。
「ねえ、偃松。本当に死んでいるの?山岡……内史は本当に死んでいるの?血を流し過ぎて倒れているだけではないの?」
山岡を見たまま、はそう問うが、偃松からの返答はやはりない。
さすがに訝しく思った。
振り返って背後を見ようとしたその瞬間、耳が割れそうな音がすぐそこでした。
それが自分にあてられた衝撃である事を悟ったのは、気を失う直前だった。
薄く開かれる瞳。
そこに映った景色を、はぼんやり眺めていた。
見たことがある、だけどあまり馴染みのない天井。
ここは、何処だろう。
「気がつかれましたか」
ふと声のしたほうへ顔を動かす。
朱衡が心配そうに覗き込んでいる。
「大宗伯……」
そう言って起き上がろうとした瞬間、頭に鈍い痛みが走った。
小さく呻いたがそのまま半身だけは起こし、痛みの走った頭部に手を当てると、手当されたあとがある。
「もう少し寝ていなさい。かなり血が流れたようですから」
「血が……?一体……」
一体何がと言いかけて、急激に山岡を思い出した。
「だ……大宗伯……。内史は?内史はどうなりました」
「岡亮は見つかりません。おそらく連れ去られたのかと」
「え……、まさか……嘘!それは、それは私が見た景色と異なります」
「、興奮しては傷に障ります。少し落ち着いてお話なさい」
肩に手が置かれ、優しく顔を覗かれて、は一度口を閉ざした。
しかし頭の痛みの他は、少し気分が悪い程度である。
「何か聞きたいことがあればお答えしましょう。それともわたしの知っている事をまずは話しましょうか」
「そう……そうですね。でも先にこれだけは教えて下さい。偃松(えんしょう)は無事でおりましょうか」
「むろん、無事ですよ。無傷ではありませんが、貴女より早くに目が覚めたと、知らせがありました」
「そうですか……」
大きな安堵の息が漏れた。
それを見た朱衡は立ち上がり、薬湯を持って戻ってくる。
「少し眠くなりますが、飲んでおいたほうが良いでしょう」
「は……い」
そう言って薬湯を受け取ったが、どうにも飲む気になれない。
薬湯を手に持ったまま、は朱衡を見上げた。
視線に気付いた朱衡は微笑んで椅子に腰を下ろす。
そこへきてようやく、ここが朱衡宅であることに思い至った。
「私は何故ここにいるのでしょう……」
「宮城では偃松(えんしょう)が治療を受けておりましたし、ここのほうが安全だと思ったからですよ」
「大宗……。朱衡さん、ありがとうございます」
「いいえ。さて、何からお話し致しましょうか」
朱衡はそう言って、の手に持っていた薬湯をそっと取る。
変わりに小卓に置いた茶器に青茶を入れてに差し出す。
は青茶の香りを嗅ぎ、震えそうな心を落ち着けて一口飲んだ。
痛みはそのままだったが、話を聞かねばならない。
まだ眠ることは出来ないのだと、そう自分に言い聞かせていた。
「まずは、貴女がたの事ですね。わたしが報告を受け、内史府へ向かった時、最初に発見したのは、入口付近で倒れている偃松(えんしょう)でした。偃松は血を流していたわけではありませんが、やはり貴女と同じように頭を何かで殴られていたようですね」
頭上にこぶが出来た程度であったが、それでも衝撃で気を失ったのだろう。
「それから衝立の向こうで倒れている貴女を発見致しました。本当に、肝が潰れてしまうかと思いましたよ。血の海の中に倒れているのですから。実際、貴女は頭皮を切り、大量に出血していたようですね」
ですが、と朱衡は続ける。
「貴女だけの血ではないと分かったのは、血が移動をしていたからです」
山岡の姿がないのなら、生きている可能性もあっただろう。
しかしこの言い回しは何処か変だ。
移動していたのは、山岡ではなく血だと言う。
「血が……移動?」
「そうです。引きずられた跡が残っておりました。恐らく、それが岡亮でしょう」
「で、では内史はどこに?」
「血の跡は庭院へと続き、雲海に消えております。何者かが岡亮を運び、雲海に捨てたとしか考えられないのですが」
「捨てた……?」
「ええ。血の跡を見れば、そのようにしか思えないのです。念のために冬官を呼んで調査致しましたが、やはり同じような事を言っておりましたね」
「つまり内史府には、内史、偃松、私の他にもう一人いたと言うことですね。後から入って来たのか、元より潜んでいたのか、それは分かりませんが……」
「そうなるでしょうね」
「では……内史はどうなったのでしょうか。生きて……いるのでしょうか……」
「冬官の意見だけを言えば、危険な状態であろうと言うことです。犯人が何の為に内史を連れ去ったのか、それは分かりませんが、血が消えていた場所で捨てられたのだとすると、そのまま血が流れ続けます。そうなれば、生存率は非常に低くなる」
「そんな……」
「逆に、雲海に捨てたと見せかけて他で治療を施しておれば、生きている可能性が高くなります。しかし……それなら何処に行ったのか分かりません。血の跡を消して運ばねばなりませんし、念のために宮城や、失礼を承知で各官邸を探してみましたが、それらしい痕跡がありません。消えてしまった、としか……言えないのです」
「生きて……どこか……茂みのような所に隠れているのでは?葉に隠されて見つけることが出来ないとか……」
空になった茶器を持つ手が震えている。
朱衡はそれを上から包むようにして押さえ、茶器をそっと外して小卓に置いた。
「今はまだ何とも言えないのですが、その可能性はわたしも考えて、夏官と天官に頼んで探した結果、宮城内にはいないと判断が下されたのです。騎獣を出して雲海の上も調べましたが、やはり発見するには至りませんでした」
「一体……何のために……?」
「岡亮一人を狙ったものなのか、春官を狙ったものなのか、それとも他に目的があったのか、それすら分かりません。ですが……」
朱衡はそう言うと、牀に腰を下ろす。
に近寄ってその体を引き寄せた。
「貴女が無事で良かった……。本当に、驚いたのですよ」
「朱衡さん……ごめんなさい……」
「謝る必要などございません。生きていたのですから」
生きていたと言った朱衡の言葉は、逆に山岡の生存率が極めて低い事を裏付けるようだった。
しかし普段は見せない感情の露わさに驚いて何も言えず、ただ朱衡の背中に腕を廻して存在を確かめた。
「しばらくはここにいたほうが良いでしょうね。最低限、必要なものがあれば夏官に頼んで運んでもらいましょう」
朱衡はそう言ってに微笑む。
一時的とはいえ、またここに戻ることになったのだ。
それが少し嬉しいような気もした。
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