ドリーム小説
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海客と海客 〜先輩〜 =26= 翌日の夕方。
ふらつく足で、それでも春官府へ赴いた。
自宅と内史府の様子を見てから、壁伝いに朱衡の許へと向かった。
「大宗伯」
「……歩いても平気なのですか?」
朱衡はそう言いながら立ち上がり、を支えようと近寄る。
「ええ……内史府へ行って参りました。内史府は……すっかり元通りなのですね」
腕を引かれて椅子に座るまでに、はそう言って溜息をついた。
「そうですね。そのままにしていては……。あまりにも酷い光景だったので」
「血だらけでしたもの……とても平常ではいられません。他の方も動揺なさるでしょうし……」
がそこまで言った時だった。
駆けつけてくる足音が耳に入る。
それが異常な不安を誘った。
青ざめた顔を見た朱衡が、強くの肩を抱いて身構える。
飛び込んで来たのは梧桐宮に詰める鶏人だった。
に劣らぬほどの蒼白で息を切らせている。
「大宗伯……小宗伯! 大卜が……大卜が」
「翫習(がんしゅう)がどうかしたのですか」
朱衡が鋭く聞くも、鶏人は動揺していて言葉になっていない。
とにかく来てくれと言って、泣きそうな顔で二人を見ていた。
そこへもう一人の来訪者。
今度は夏官だった。
「大司馬の命により参りました。夏官府の裏で内史の袍らしきものが発見されました。雲海を漂っていたものが、打ち上げられたようでございます」
「そんな……」
一瞬、視界が暗くなりかけた。
しかしここで倒れる訳にもいくまい。
そう思い、床を踏みしめて立ち上がる。
「大宗伯、私も参ります。どちらから行かれますか」
がそう問うと、朱衡は知らせを持ってきた双方を見てしばし考える。
ややして鶏人に向かって言った。
「案内を頼めますか」
「翫習(がんしゅう)まで何かあったのと言うのでしょうか……」
朱衡の腕に掴まりながら、不安気にそう言った。
しかし今の朱衡に、何もないと言いきれるだけの確証はなかった。
鶏人が向かった先は、翫習の官邸だった。
中は特別荒れている様子もなく、閑散としていた。
何者かの襲撃を予測していただけに、安堵の息を漏らそうとした。
しかし何かおかしいと思い直して、もう一度よく辺りを見回した。
書卓(つくえ)の上は文具がきちんと並べられている。
衣桁(いこう)にも乱れたところはなく、その他全体的に見ても整然としていた。
それが異様な空気を孕(はら)んでいる。
「覚悟の失踪ですか」
朱衡がそう言ってようやく、房室の異常さに気が付いた。
整いすぎなのだと。
身辺を整理したような、そんな様子だった。
「昨日からどこにもお姿を見せなかったので、何かあったのかと来てみたのです。そこで、これを発見致しました……」
鶏人はそう言って袂から書簡を取り出す。
朱衡が受け取り、はらりと紙の音が静寂の中に響いた。
「大宗伯……何と書いてあるのですか……?」
「自白ですね」
「自白……?」
「翫習が岡亮(こうりょう)を殺したと、そう書いてあります」
くっと言って涙を呑んだのは鶏人だった。
はただ唖然と朱衡を見ている。
「些細なことで口論となり、内史府で揉めたとありますね。近くにあった硯(すずり)で内史を殴ってようやく我に返り、どうしようかと思っていたところへ史官の一人が来て、慌てて身を潜めた。史官はその場をすぐに出たが、夏官を呼びに言った事は間違いないと腹をくくった。しかし来たのは小宗伯だった。気が付くと史官と小宗伯を殴って倒し、内史を引きずって雲海へ捨てた……」
かさり、また音がする。
そのかそけく響く紙の音は、重い内容を秘めていた。
「そのまま自宅へ帰って自ら謹慎しておりましたが、夏官が内史を知らないかと訪ねて来て覚悟を致しました。しかしその場で言う勇気はなく、こうして書面で綴ることしかできなかったわたしをお許し下さい。死んで……お詫び申し上げる……」
ついにの力は砕けた。
床に座り込んで呆然とする。
朱衡が屈んでの肩を抱く。
鶏人に向かって小さく言った。
「このことは他言無用です。主上に申し上げて今度の指示を仰ぎましょう。あなたは帰って休みなさい。後はわたしがやっておきます」
「は……はい。大宗伯、ありがとう、ございました」
すでに涙を流していた鶏人は、なんとかそう言って頷く。
すぐに退出した鶏人の後ろ姿を、は人ごとのように眺めていた。
「、貴女も休みなさい」
「いえ……。大宗伯は夏官府へ向かわれるのでしょう?でしたら、私も参ります」
「見ない方が良いかもしれませんよ」
ただ首を振って答えた。
足に力を入れて立ち上がった。
夏官は二人が戻ってくるのを待って、引き上げた袍を提示した。
波に洗い流されたのか、血は随分と色を薄めていたが、檜皮色の袍の肩から胸元にかけては染みのように残っている。
あの日、山岡が着ていた物であると確信したは、それを朱衡に告げた。
「、わたしはこれから主上の許へ参ります。貴女は帰ってなさい」
「いいえ、私は客殿に向かいます。これを報告しに行かねばなりません。同郷の者が死んだ事を、あの子はまだ知らないでしょうから……会わせるつもりだったの……だから……」
「……そうですか。では近くまで送って行きましょう。報告が終わったら迎えに戻りますよ。まだその足では危ないですから」
「ありがとうございます」
後輩を訪ねて山岡の死を告げ、そこで朱衡と合流した。
一緒に着いてきた王を後輩の房室に残し、朱衡宅へと戻った。
朱衡は自宅へ着くと、を座らせて言った。
「明日、岡亮の葬儀が執り行われます。大卜の事は、まだ死を確認しておりませんし、伏せておこうという話になりました」
「そうですか……」
「もう横になったほうがいいでしょう。立てますか……」
「ええ……。でも……まだ眠くありませんから」
客殿で王の軽口によって、一時は溶解しかけた表情は、今また固まったようであった。
ぎゅっと手を握ったまま、硬直している。
「」
そっと肩に置かれた手にも、気付いてはいるが動けない。
ここへきて、何故ここまで硬直してしまったのか、自身も分かっていなかった。
視界は廻っている。
気分も悪い。
傷もまだ痛い。
そんな状態で動き回ったせいで、体力はもうないはずだった。
だからこそ、朱衡は寝ろと言ったのではないか。
だが……
「」
再度呼ぶ声。
しかしすでに答える事が出来なかった。
それが心情によるものなのか、純粋に体力的な問題なのかすら、今のには分からない。
「!」
少し強くなった朱衡の声。
横から前に移動してくる体をぼんやりと見ていた。
「貴女がここで倒れたとしても、誰も喜びませんよ。それで誰かの命が帰ってくるでもない。それなら、貴女は何故自ら倒れようとしているのです?」
「……え?」
ようやく首だけが動き、僅か上にある朱衡の双眸を捉えた。
「蝕に遭った者だけが辛いのですか?死んだ者だけが辛いのですか?それをただ見ているしかなかった者に、気付いてやることが出来なかった者に、辛くなる権利はないのですか」
「あ……」
「自らを追いつめ、倒れてしまうのはただの自己満足です。倒れたからと言って、彼らと同じ痛みを味わう事など、到底出来ないのです。何故なら我々は生きているからです。死んだ者の辛さなど、生きている者に分かるはずないのです」
「それは……」
「内史は貴女が倒れるのを望んだでしょうか?」
「……」
「誰も見ておりませんよ、。もう、好きなだけ泣いてもいいのです」
ふわりと頬に置かれた手。
温もりは優しくを包み、凍結していた心に広がっていった。
軋むような腕を上げたは、そのまま朱衡の首に取り縋った。
大きな声をあげて泣いたのは、幾度目だろうか。
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