臥室(しんしつ)はさらにを驚かせた。寝るためにこれだけの場所を要するのかと。「呆れるほど広いわね……おまけに呆れるほど高い、か……」天井を見上げて溜息をつく。「これってやっぱり悪い夢としか思えないわ。私の部屋と同じ大きさのベッドなんて、尋常じゃないわ」しかしはたと考え直す。「そうか、きっといい夢なんだわ。豪華なホテルに泊まりに来ている夢なのよ」そう言って窓際へと移動する。窓は床から天井にかけてはめ込まれており、木枠には複雑な模様が彫り込まれていた。窓だけ見ていると、西洋風の豪華なホテルにいるのだと思われた。しかし中を見るとどこか西洋風とは言い切れない装飾が目に付く。中華風のようでもあったが、違うと言われればあっさり納得しただろう。衝立にも何やら模様が彫り込まれており、気を付けてよく見ると至る所に贅を凝らした感じが伺える。これで寝室なのかと思うと、何やら信じがたいものがあった。これ以上中を見ていると、疑問が次々浮上して来そうで恐い。慌てて夜を映す窓に眼を向ける。窓には豪華なホテルの中に、場違いな普段着の自分が映っている。窓に映る部屋の中、の姿だけがそぐわない。「自分を見ているんじゃあ、中を見ているのとかわらないじゃない……」そう呟くと、外に眼を向ける。よく見ると、窓の奥はテラスになっている。外は寒いだろうかと窓を開け、テラスに足を踏み出した。「このテラスも……私の部屋より広いんじゃ……」がっくりと肩を落として先へと進む。欄干に手を置いて空を見上げると、丁度真上に月が見える。明るい月のせいか、星の数はそう多くなかった。ふと、空を見上げるの耳に波音が聞こえる。「え?」海が近かったのかと、暗い世界を見つめる。視界の右下に中庭のようなものが見えていた。陶(とう)の机が置かれており、椅子がいくつか見えている。そのさらに奥に、の探していた物があった。さざなむ海が、そこにはあったのだ。「海辺にいたのよね、私……」海からの座っていた岩場までは数メートル。ここは、数十メートルは離れている。しかし数十メートル離れていると言っても、の暮らしていた街に、こんな場所などなかったはずだ。この建物を除外しても、海をこの角度から見下ろせるようなものは、山も丘もなかった。どれほど遠くに来たのだろう。いや、それよりも、どうやってここに来たのだろうか。考えないようにしていたが、無意識の内に浮上してきた疑問。それ以上先に進めば、恐ろしい事実が待ち受けていることを悟ったのか、強く頭を振って考えを消した。海から視線を逸らすと、再び中庭を見る。「あら?」先程見た中庭には、誰もいなかったように思ったのだが。今見ると、朱衡が陶の机にタンブラーを置いて、椅子に座って背中を向けている。対面に向かって誰かと、何やら話をしているようだった。しかしその対面は、丁度死角になっている。欄干越しに乗り出して見ると、長い袖口だけが見えた。その長い袖口が女性を連想させる。さらに朱衡の様子だけを見ていると、何やら親密そうな気配である。しかし、ぽそりぽそりと聞こえてはくるものの、何を話しているのかは皆目掴めない。「あ……そうか。私が寝室を取っちゃったから……ひょっとして、彼女かしら」ふと、年寄りだと言った朱衡の言葉を思い出した。「奥さん……かな。あ、新婚さんだったりしたらどうしよう。すっごくお邪魔よね、私って」そう考え始めると、ここを使ってはいけないような気がしてきた。彼女がいるのなら、彼のベッドで……あるいは二人のベッドで他の女が眠る事になるのではないだろうか。それは、自分に置き換えてみれば少し嫌だ。朱衡は今、説明をしているのだろうか。もしかすると、対面に座っている女性は酷く怒っているかもしれない。突然紛れ込んだ、自分のせいで。「ちゃんと説明しなきゃ」慌てて中へと戻り、駆けるようにして中庭に通じる扉を探した。慣れない構造の建物の中を走りまわり、ようやく中庭へ辿り着く。左端に陶の机を見つけ、少し息を整えてからそちらへと向かった。「では今はどちらへ?」「とりあえず正寝に戻した。夜も遅いから、そのまま見張りを付けて帰ってきたんだが……。まさか今から逃げたりせんだろう」「そうですね。しかしよく一日で見つけて来ましたね」「まあな。前々から眼をつけておった賭博場だからな。あいつが好きそうだと目算をつけて行ってみれば、絵に描いたように遊んでおった」「まったく。呆れ……おや、。眠れないのですか?」突然向けられた朱衡の顔、間髪入れずに問われたその言葉に、は硬直したように立ち尽くしていた。朱衡が話していたのが、女性でなかった事も驚いたが、同じような格好をした者が二人いるその光景が、酷く不思議に思った。加えて、自分では馴染まなかった景色に、この二人は溶け込んでいる。何の齟齬(そご)も感じさせない、風景の一部のように。では、異端であるのは自分の方なのだ。この景色にそぐわぬ自分が、ここでは異端であるのだった。疎外感がを包もうとしていたが、朱衡と話をしていた男が口を開いた。「珍しい格好をしているな。客が来ているのも珍しいが……」誰に問うでもなく発せられた声に、朱衡が答える。「彼女は被害者ですよ、帷湍。蓬莱からお越しです」「何?蓬莱から?海客か……。で、なぜ被害者なんだ?」「台輔に連れて来られたようなのです。それとは気付かずに」「?」不思議そうな表情で、朱衡とを交互に見る帷湍。その様子を見ていたは、この人物を女性と勘違いした事を、少し恥ずかしく思っていた。朱衡とは違って、どこからどう見ても女性ではない。「眠れないのですか?」再度同じ事を問われ、呆然としていたは我に返って言った。「あ、あの。やっぱり私が寝室を借りるのは悪いと思って……それを言いに来たの。その……もうひとかたが隠れていたものだから……奥さんとかなら、悪いと思って……」段々小さくなるの声。笑いを堪えている朱衡と、眼を見開く帷湍が目前にいた。帷湍の様子を表すなら、開いた口が塞がらない、と言った心情か。「と言うことですよ、帷湍。どうですか、泊まっていかれては。何なら添い寝して差し上げましょうか?」「断る!」笑い含みに言った朱衡を睨めつけて、帷湍はそう叫ぶと立ち上がって踵を返す。大股でその場を立ち去る帷湍を、は唖然と見送っていた。「お……怒らせてしまったかしら」「構いませんよ。貴女のせいではありません」帷湍が消えた方角を見つめながら言う朱衡。月の光が頬に反射しているように見えた。それが教えていった。彼はこの世界がとても似合うのだと言うことを。ここが彼の自宅だからだろうか。冴え冴えとした月明の中、卓子の前で佇むその姿は、見事風景と溶け込んでいる。逆に自分を見てみるとどうだろうか。「眠れないのでしたら、何か暖かいものでも飲まれますか?それとも御酒がよろしいですか?」「そうね……じゃあ、お酒を頂いてもいいですか?」飲んだ事はないけども、と心中で呟きながらの返答となった。「ではすぐにお持ち致しましょう」朱衡はそう言うと、一度中へ入って行った。それと供に吹き抜けた風が冷たく、は瞬く間に飲むと言った事を後悔した。中でならともかく、この場でとなるとかなり寒くなりそうだ。辺りを見回し、そこにも欄干があるのに気が付いた。そこまで近付いていくと、海は随分と近くにある。「へえ、もっと遠いものだと思っていたのに……」欄干に手をかけ、そのまま乗り出すようにして海を眺めていると、その中に光を見つける事が出来た。中でキラキラと瞬く光。ふと上を見あげると星が瞬いたが、その光源が同じなのだとは到底思えなかった。「何?あれ……?」海だと思って眺めているここは、人工的に作られたものなのだろうか。しかしホテルの構造上、水の中に光のイルミネーションを作っているのだとしたら、桁違いに大規模な作りをしている。目に映る物全てが現実を否定しているような気がした。尤も、その現実とはの中にだけ存在するものであって、事実とは無関係である。しかしそれを容易に認める事は出来なかった。「蓬莱から来られた方は雲海がお好きですね」「……え?」欄干に手を付いたまま振り返ると、そこに微笑む朱衡の姿があった。「景王も雲海がお好きでした」「ケイオウ?」「お隣の慶国の国主ですよ。貴女と同じように、蓬莱から来られた方です。ああ、春官にも一人おりますね。内史府の官で、やはり蓬莱から流れて来た者です」そう言いながら、にタンブラーを渡す。錫で出来たもので、これにも複雑な模様が浮き彫りのように施されていた。冷たいタンブラーを受け取ったは、首を傾げて朱衡に問う。「その国も知らないわ。ま、初めて来た、見知らぬテーマパークだものね。知らなくて当然か」笑って海に目を戻す。朱衡はが顔を背ける直前、その表情に浮かんだ憂いを見つけた。ほんの僅かではあったが、確かに現れている。渡された酒を飲みもせず、ただじっと海を眺める。「雲海……雲海がテーマなんだ、この水溜まりは。でもちっとも雲がないわね」隣に移動してきた朱衡が教えるように言う。「下から見上げれば、雲のように見えることもございますよ」くすりと笑う声が答える。「なあにそれ?下にも何かがあるみたい」「もちろんございます。人の街が……この海の下には関弓と呼ばれる街が広がっています。ほら、灯りがいくつか見えているでしょう?街の灯りですよ」朱衡は欄干に指を這わせ、に見えるよう関弓と文字を書いて教える。そしてちらちらと瞬く光を指した。「ふうん、それは大きな街なの?」「一応、この国の首都ですから」「へえ。じゃあここは首都の上に乗っかってるって訳?」「乗っている訳ではありません。首都から続く山の頂上にあたりますね。どこの国でもそうですよ。王宮は首都の上と決まっておりますからね」「え……じゃあここって何なの?」再び欄干を指が走る。「ここは玄英宮と申します。雁州国国主、延王の居住」「それで……王宮?」そう問うと、朱衡はにこりと微笑んで頷く。「そうです」「じゃあ……あなたが王様なの?」がそう言うと、朱衡は笑みを消して嫌そうな顔をする。「とんでもない。あんなものになりたいと思った事はございませんね」「あんなもの?」ふっと笑みを戻して言う朱衡。「わたしはただの臣です。王ではありません」「こんなに大きなお家に住んでいるのに?」「ここでも王宮に比べれば、大きいとは言わないでしょうね」「そうなの?」「先程、貴女とお会いした場所こそ、王宮の一郭ですよ。ここも玄英宮の一郭と言えばそうなのですが……」そう言うと、は難しそうな顔をして朱衡に顔を向ける。「一つ確認しておきたいんだけど、まさか六太って子が王様じゃないでしょうね」「違います」朱衡がそう答えると、ほっと息を吐き出した。「明日、会えるかしら。ねえ、知り合いなんだったら、会わせてもらうことは出来る?一言文句を言ってやらなきゃ収まらないわ。それこそ、帰るに帰れない」「そうですね……」再度、戻れないのだと言い聞かせるにはまだ早いのかもしれないと、朱衡は口を噤んだ。変わりに六太と会わせる事を約束する。「では、明日はわたしとともに参りましょう。朝議がありますから、少しお待ち頂かなくてはなりませんが」「朝の会議?ふうん、大変なのね。ああ、そうか……役職者なのね」王宮にいて会議とは言っているが、実際にはここを運営する会社なのだ。と言う事は役職者と考えて間違いないだろう。若そうに見えるのに、随分やり手なのだと考えながら、朱衡の横顔を見つめる。それに気付かぬのか、朱衡は海の下に見える灯りをじっと見ていた。「そろそろ眠ったほうが良いですね。明日は少し早く出ますから」ふと顔を上げて隣に目を向けて言う朱衡。瞳がかち合うのを避けて、タンブラーを見た。そのまま残っている中身に気付き、何も考えずに飲み干した。かっと喉を通る酒の強さに、思わずくらりとした。しかしなんとか欄干を掴んで踏みとどまる。手を離すと、足が地をついていないようだ。どうにかして精神を正常に保たねばならないと思った。「ね、本当に私はあそこで寝てもいいの?あんな広いベッドで、一人で寝てしまったらなんだか悪いわ。奥さんとか、彼女とかいるんだったら遠慮なく言ってほしいんだけど……」酒は脳にまで染み渡ったかと思う。精神を保つための質問がこれでは、もういくらも保たないのだろう。「どちらもおりませんよ。ごゆるりとおくつろぎ下さい」「……そう。じゃあ使わせてもらいますね。おやすみなさい」軽く頭を下げる。しかし軽いつもりで下げた頭は思ったよりも重い。そのまま前に転んでしまいそうだった。慌てて上半身を起こして歩き出す。少し覚束ない足取りのまま、臥室(しんしつ)へと戻っていった。一人になると目が回っている事に気が付く。一気に飲んだ事を後悔し、今後は控えようと心に決める。しかし一気に飲み干した酒のおかげで、何も考える事なく眠りに就くことが出来た。
続く
何度か書いているのですが……、帷湍さんはこの時……らしいのです。
でも、それでは面白くないので、登場して頂いております。
役職に関してははっきり言ってなんでも良いと思うのですが、
一応100年目辺りから一周した感覚で読んで頂くと幸いです。
美耶子
※お酒は20歳から※