ドリーム小説
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海客と海客 〜先輩〜 =9= 翌日から、の新しい生活が始まった。
朝は暁鐘(ぎょうしょう)の音で目を覚まし、この世界の事を学ぶ。
ほとんどが与えられた房室(へや)に閉じこもって生活をした。
勇気を出して街へ降りることが出来たのは、その一週間後の事だった。
朱衡の言った通り、ほとんどの者の言葉が理解できなかった。
驚きと衝撃で何も言えずにいたが、驚いてなくとも何も喋ることは出来なかっただろう。
何しろ、まったく分からないのだから。
言葉が分からないと言うのは、恐怖そのものである。
相手を理解出来ない、相手に理解されない恐ろしさを、こんな形で体験しようとは思ってもいなかった。
諸外国へ突然来てしまった場合と同様だと、何度も自分に言い聞かせたが、そこで納得する事はどうしてもできなかった。
の知る限り、世界は一つであり、海の下に街など存在できようはずもない。
何よりもを驚かせたのは、獣が服を着て、街を闊歩(かっぽ)していることだった。
半獣だと朱衡から説明を受けたが、理解するに至らない。
やはりテーマパークであろうかという思考が過ぎったが、ぬいぐるみだと認識するには、少々生々しい感じがした。
これらをもって、見知らぬ外国と思いこむには無理があった。
やはり、違う世界なのだと思わざるを得ない。
あるがままを、受け入れていかねばならないのだ。
それはあきらめにも似た心境である。
関弓を後にする頃には、安堵感が身を包んでいる事を不思議に思うほどだった。
例え一週間であっても、見慣れた場所と言うのは落ち着くものだと実感する。
この世界に来るまで、は生まれ育った場所を離れた事がなかった。
旅行も修学旅行程度で、長期間地元を離れた経験などなかったのだ。
ゆえに、現在尤も見知った場所が、一番落ち着く場所なのだと思いこんでしまった。
朱衡宅を離れるのが、少し恐いような気持ちにもなっている。
街から離れるほど、安堵が身を包む。
そうとは悟られぬよう、気丈に振る舞ってはいるが、驚きと恐怖を完全に隠すことは不可能だった。
自宅へつくなり、朱衡はものも言わずを見つめ、暖かい青茶を入れてくれた。
視線でだけで座るように促すと、茶杯をの前に置いて窓を開けに側から離れた。
良い香りがくゆりと立ちこめている。
は一口青茶を飲んだ。
この一週間で、随分飲み慣れた茶の味だったはずなのだが、何故か再び初めて飲むような錯覚に陥る。
その味が、やはりここは知らない世界なのだと実感させた。
「お茶の味、衣服、住居、人そのもの……すべてが違う……」
小さくそう呟くと、まだ窓際に立っている朱衡に目を向ける。
朱衡は窓から外を眺めており、から背を向けている。
今日、朱衡は朝から一度もの側を離れなかった。
休みなのだろうと、勝手に理解していたが、実際のところは知らない。
昼過ぎから関弓に降りて、説明を聞きながら街を見て廻り、恐ろしくなるまでどれほどの時間だったのだろうか。
窓から射す光は、すでにその色を深めつつあった。
朱衡の袍を橙に染めて、長い影を床に落とす。
朱衡は外を向いたままで、の方を向く気配はなかった。
「もう、夕方ですか?」
そう声をかけると、ようやく振り向いた朱衡。
にこりと笑って頷いた。
その笑顔に誘われるように、もまた窓際へ歩み寄る。
朱衡の隣に立つと、同じように夕陽に目を向けた。
じわりと瞳が熱くなり、丸い陽がいびつに歪む。
朱衡から顔を背けるように横を見て、瞳を閉じると涙が頬を伝う。
無言のまましばらく目を閉じていると、穏やかな波音が耳を撫でていった。
その波音が、最後の蓬莱を思い出させる。
月夜の波打ち際、気が付けば違う世界の月が頭上にあったあの夜。
「方位、太陽の色、月の色……人の、心……」
そう呟くと涙が引いていった。
気付かれぬように頬に残った涙を拭うと、再び斜陽(しゃよう)に目を向けて言う。
「見つけた。同じもの……」
隣の朱衡が、ようやくに目を向けた。
続きを待っているのだろうか。
はゆっくり頷くと、心に浮かんだ言葉を繋ぐ。
「違う事も多くて、戸惑うことも多いけど……同じ人であるのなら、心は同じよね……。太陽も月も同じ、風の音も同じ。月は綺麗だし、波の音は心を落ち着けてくれる。夕陽はここでもやっぱり少し寂しくて、蓬莱と同じ印象を受ける」
「そうですね。わたしも、そのように思いますよ」
「うん……。喉が渇けば水が欲しくなるし、お腹が空けばご飯を食べる。お酒を飲めば酔うし、夜が来ると眠たくなる。何らかの形で生活の糧を得、どこかに生き甲斐を見いだして生きてゆく」
「もう、大丈夫なようですね。次の段階へ向かうことが出来そうですか?」
「次の段階?」
「わたしと一緒になるか、街に降りて生活するか。もしくは、宮城に勤めるか」
「……それは……」
「ゆっくり考えるといいですよ。すぐに答えを出せとは言いません。今、この瞬間からようやく考えることができるのですから」
「朱衡さん……ありがとうございます」
ただ微笑んだだけでそれに答えた朱衡。
再び落ちる夕陽に目を向ける。
習うようにも夕陽を見た。
完全に陽が落ちるまで、二人は窓際に立っていた。
この世界にも同じものがあるのだと知ってから、の根本的姿勢が変わった。
そして知りたい事も変わった。
この世界で生きて行くには、どのような手段があるのかの模索が始まったのだ。
まず民の大部分を占めるのが農業であることを知った。
だが、は生まれつき農業に携わっていた訳ではない。
一から学ばねばならない事が多いだろう。
次に商売をしてみようかと考え、どのような仕事があるのかを調べた。
しかし、ありとあらゆる商売の中から、これなら少しは分かると思えるものが、情けない事に一つもなかった。
言葉を覚え、仕事を覚えなければならない。
接客であれば、相当流暢でなければならないだろう。
そう言った点で考えれば、農業の方が語学力を問われないぶん、楽かもしれない。
最後に官吏への道を考えてみた。
この環境を作った六太を上司に据え、仕事を覚える。
言葉の問題はなくなるが、読み書きを覚えねばならない。
知的な仕事が自分に向いているのか分からなかったが、もし朱衡が協力してくれると言うのなら、なんとか頑張れるかもしれない。
残りはこのまま世話になること。
だが、これが一番したくなかった。
無償で養われる事に対して抵抗があった。
引け目も感じる。
このような状況下であれば、相手が何を要求してきても抵抗し辛くなるものだ。
極端な事を言えば、体を求められても断りにくい。
断る直前、天秤にかけねばならないからだ。
今後の生活一切を失うか、矜持を捨てて生きてゆくのか。
もちろん、朱衡が嫌いだと言うわけではないし、そう言った事を強要されたこともばければ、身に危険を覚えた事も皆無であった。
それを少し寂しく思う自分もいるのだが、庇護された状況下で生まれる感情を信じてはいけない。
紳士的な態度が随所に見られる人物であるだけに、油断をすれば恋に落ちそうである。
そう言った思考の持ち主であったため、は朱衡宅で掃除や洗濯、料理などを少しずつ学びながらこなしていた。
何もせずに世話になるだけの環境には耐えられない。
代償のない親切を信じられるほど、純粋ではなかったとも言えよう。
そんなに付き合ってくれるのは、やはり朱衡であった。
疑問に思った事は何でも聞いて理解しようとした。
朱衡が帰って来るとすぐに書き付けておいた疑問をぶつける。
それに嫌な顔一つせずに、朱衡は丁寧に答えていった。
それに付随する知識を織り交ぜながらの説明である。
その他にも、分からないなりに本に目を通し、どう言った内容が書かれているのか理解しようと努力した。
それの是非を問うのも、もちろん朱衡である。
初めのうちはまったく的外れなものであったが、時の経過とともに少しずつ当たるようになってきた。
ある日の夕刻。
帰途へと向かって、処理速度を上げていた朱衡のもとを訪ねる者があった。
扉の影から、訪問者がちょこんと姿を現す。
「台輔。どうしたのです?」
少し隠れるような動作を訝しげに見ていると直感が働いた。
の事だろうと目算をつけ口を開く。
「の勉強を手伝わねばなりませんので、ご用件なら手短にお願い致します」
「その、のことなんだけどさ……」
しょぼんと肩を落として入ってくる六太。
「色々考えたんだけどさ……やっぱり、おれの責任だし……蓬莱へ……送って行こうかと思って……」
「そうですか……わたしのほうからお話いたしましょうか?それとも」
「朱衡は……どっちがいいと思う?は、おれの顔を見たくないだろう?大丈夫ってんなら、ちゃんとおれから言ったほうがいいに決まってるんだけどさ……危険も伴うだろうし、弊害が出る可能性もあるし、その辺をちゃんと説明しないといけないから」
「わたしからのほうが好ましいでしょうね」
まだそれほどまでに辛い思いをしているのかと、六太の表情が語っていた。
「……やっぱり、そうだよな……じゃあ頼む」
気落ちしたまま退出していく六太を見送り、朱衡は処理を再開した。
陽が完全に沈む前にすべてを終わらせ、帰途へと就くために。
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