ドリーム小説
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四季絵巻 〜夏〜
世界の南に位置する国。
奏南国。
南国のこの地に、夏がやってきた。
かん、ときつい日差しを受けて、地の温度はじりじりと上昇する。
炎蒸す地を逃れようと日陰を求めて歩く足取りは多く、風の到来を待つ家々がひしめいていた。
そんな人々の期待が通じたのか、空は厚い雲に覆われ出している。
灰白色のその雲は、震えるようにして大粒の雨を落とし始めた。
雨は街道を行く人々にも分け隔てなく降り注ぎ、逃げ場を求めて走る足音が、打ち付ける雨音に混じって響いている。
その街道を一人の少女が走っていた。頭に手をかざして雨を避けるように走っていたが、すでに乾いている箇所はないほど濡れ果てている。
「お嬢さん」
呼び止められた少女は、横から投げられた声に足を止める。
若い青年が手招きをして、大きな木の下に立っていた。
「ここなら大丈夫だよ」
言われるままに駆け寄って、木の下に滑り込む。青年の言った通り、そこは幾重にも重なった葉のおかげで、雨が届かないようだった。
「災難だったね」
にこりと笑った青年は、乾いた布を出して少女に渡した。
「ありがとうございます」
同じようににこりと返し、ありがたく布を借りて髪を拭った。
「お兄さんは旅の人?」
「そうだよ。お嬢さんも旅の人かい?」
お兄さんお嬢さんと、何やらおかしい気がした女は、名乗って返事をする。
「よ。隆洽に伯母がいるの。えっと…母のお使いの途中」
「わたしは利広だよ。隆洽か…わたしも隆洽に住んでいるよ」
「隆洽に?じゃあ、今から旅立つの?」
「そうゆうことになるね」
「どちらまで?」
「さあ…どこに行こうか」
「決まってないの?」
「大体は決まっているんだけどね」
北西の方角が何やらきな臭いようだし、と残りは心中で呟いた利広は、不思議そうに見上げている少女に目を向けて笑った。
「そっか…利広は錦衣玉食の人なんだね」
「何故?」
「ふらりと旅が出来ちゃうんだから、結構なご身分なんじゃない?」
「いやいや。ただの風来坊だよ」
それにしては良い物を着ている。
「ふうん」
信じた訳ではなかったが、これ以上追求しては失礼だろうと思ったは、相槌を打つのに留まり、その後は口を噤んでしまった。
二人で降り続ける雨を見て、ただ時が経つのをやり過ごす。
「止まないね」
しばらくして、ぽつりと呟いたのは利広だった。
「うん…すぐに止みそうだと思ったんだけど…困ったわね」
このまま時間を潰していては、閉門に間に合わなくなる。
一番近くの人里に行かなければ、野宿を覚悟せねばならない。
「雨が止んだら送ってあげようか?」
「え?利広が?」
「他に誰かいるかい?」
「だって私は隆洽に行くのよ?戻ってしまう事にならない?」
「騎獣がいるから大丈夫だよ。ただこの雨じゃあ騎獣も走らせる事は出来ないし、雨が止むまで待ってもらわないといけないけどね」
利広がそう言い終わると後ろの茂みがさがりと動き、そこには綺麗な姿の獣がいた。乗騎が繋がれていた事を、この時まできがつかなかったは、軽く目を見開いてその獣を見ていた。そして利広に確認するように言う。
「本当にいいの?」
もちろんと言って笑う利広に、は感謝の意を伝えて空を伺い見た。
まだ止みそうにないが、騎獣がいるのならなんとか間に合うかもしれない。
そう思って空を見上げるのをやめたは、木の根に腰を下ろして頬杖をついた。
叩きつけるような雨音を聞きながら、は瞳を閉じる。
世界は水が弾ける音以外になにもない。
雷鳴もなく、また駆ける人の気配もない。
「一人ぼっちみたい…」
「酷いな」
答える声があって、は顔を上げた。
「そっか。じゃあ二人ぼっちだね」
「二人ぼっち?」
「うん。世界に利広と私だけ。たった二人ぼっちみたい」
天から流れ落ちる水のつくる壁に囲まれて、孤立したように思った。
この木の下から動けずに、見るべき景色もない空間。
目を閉じると、そのように感じたのだった。
「そうか。では二人きりしかいないのだから、仲良くしなくてはね」
「うん。でも仲悪くないわよ?それほど知らないもの」
「知ったら仲が悪くなる?」
問われたは利広の顔をじっと見て、ふっと笑う。
「利広とは仲良くなれそう。気取らない人だし」
「すごく手が焼けるかもしれないよ」
「そんな感じね」
「おや?やっぱり分かるかい?」
はくすくす笑いながら、木に凭れかかった利広を見上げている。
「うん。なんだかほっとけなくて、手を焼きたくなるような雰囲気を持っているもの。でも利広は手を焼き始めると、逃げてしまいそうね」
「結局は手を焼けない、と言う事かい?」
「う〜ん…。手を焼き始めると逃げてしまうから、少しだけは手を焼いてしまうわね。その後は人によって変わりそうだけど」
「変わる?どう変わるのかな?」
「じっと帰ってくるのを待って一気に怒る人と、帰るのを待たずに追いかけて行く人に別れると思うの」
「はどっち?」
「私なら追いかけてしまうわね。その人が自分から逃げたのではなければね」
そう言ってはふいに真顔になる。
「逃げられた事でも…あるのかい?」
上から覗き見る瞳の中には、微弱ながら心配する気配がある。
は笑顔を作って、それに答える。
「どう思う?」
「…わたしには…分からない」
は肩を竦めて言う。
「それもそうね」
さっき出会ったばかりの他人の事など、知る由もない事だろうし、知りたいとも思わないだろう。
「から逃げるなんて勿体ない事、わたしならしないな」
驚くような答えが降り注いで、は利広を凝視したまま固まっていた。
それに微笑んだ利広は、木に預けていた体を起こし、の横に腰を下ろす。
微笑んだまま前を向いた利広を、は穴の開くほど見つめていた。
「隆洽には何度か?」
「…え?いいえ。初めてよ」
問われた意味を理解するのに、少し間が必要だった。
「そうか」
「隆洽山を見るのがとても楽しみなの。伯母もいる事だし」
「伯母さんは山の近くに?」
「いいえ。国府に勤めているの」
「伯母さんは国官なんだ」
「そうなの。だから行くのよ。色々と教えてもらいたくて」
「は国官になりたいのかい?」
「――ええ」
短い返答に、利広はの顔を覗き込んでいた。
しかし、聞いてみたい衝動を抑えて、利広はから視線を逸らす。
「なれるといいね」
「ありがとう…」
再び雨音だけが二人を包み、雨は降り続ける。
「本当だ」
今度の沈黙を破ったのは、利広のほうだった。
笑いながらを見る。
「世界に二人だけのような錯覚がするね。水の壁に阻まれて、ぽつんと取り残されたみたいだ」
「でしょう?」
くすりと笑って答える。
「雲海の上もそのようだと聞いたわ」
「伯母さんに?」
「ええ。ぽつんと突き出ていて、回りには何も見えない。ただ海が広がっているだけで、他には何もないって」
「へえ…。寂しそうな所だね」
「それだけ聞くとね。でも、そこは住む人によるのじゃないかしら?仲間がいて家族がいるのなら、寂しくないでしょう?だって、そこが家なんだもの」
「確かにね」
「逆に地上にいても、人と接触を避けている人は一人よ。どんな喧騒の中に居ても、虚しい程一人ぼっち。楽しそうな声も聞こえない」
「…そうだね」
「そんな人は自分の殻に閉じこもって、ちっとも私を見てくれない。手を焼かせてもくれなかったの」
ふいに漏れてしまった言に、は慌てて手を振って、それを撤回するような仕草をする。
「ごめん。忘れて。昔の話」
「どれほど昔の事かな…?」
昔の話と言っても、はまだ少女のようなあどけなさが、その面差しに残っている。昔と言うほど生きていないだろうに。
「そうね…昔よ…」
「は…地方官吏?」
「え?いいえ。昇仙はしていないわ。これから頑張ってするの」
「それならまだ最近の話なんだね」
「…ううん、ずっと昔よ。私にとってはね」
「本当に…勿体ないな」
溜息混じりに言う利広に、はくすくす笑いながら言う。
「ありがとう。利広は女の子の扱いが上手なのね」
「とんでもない」
否定する声に、不振そうな視線を送っては言った。
「とっても褒め上手だもの。思わずくらりと倒れてしまいそうよ」
「倒れてくれてもいいよ」
笑んだまま返されたは、言葉に詰まって黙ってしまった。
こんな会話の時、どう返せばいいかなんて、分かろうはずもない。まだそれほどまでに人生の経験を積んでいないのだから。困った表情のは、ついに本当の事を告白する。
「お父さんなの」
「お父さん?」
「うん。一人ぼっちだったように思う。地方官吏だったの。お母さんは仙籍に入るのを嫌がったから、別れて官吏になったの。でも、たまには会いにいくでしょう?仕事がうまく行かなかったのかな…会う度に良くない感じになってきて…それでも何とか助けてあげたかったんだけど…その内、私の声も届かなくなった。気がついた時には、官吏は辞めてどこかへ消えていたの。行き先も告げずに、忽然といなくなっちゃった」
自分の膝を見ながら、は話をしていた。
が官吏になりたいと言った時の、母の顔が忘れられない。
もちろん反対されて、半ば家出状態で飛び出してきたのだった。
父のようにはならないで、頑張って国のために働く姿を見れば、母も少しは救われるのではないかと思ったのだ。父の姉に当たる伯母に事情を説明すると、協力を約束してくれた。
「まだ…昔の話ではないね」
軽い感触と供に、頭の上に利広の手が置かれた。
は利広を見ながら小さく言う。
「昔の…話よ」
頬に利広の手が触れる。
「昔の話なら…どうして泣いているんだい?」
そっと拭った涙を、利広は見つめていた。
「泣いてないわ…雨がかかったのよ」
そう言って顔を逸らすに、利広は苦笑していた。
「雨か…」
淋鈴(りんれい)の音(ね)は静かに響いている。
利広はそっと腕を伸ばして、涙を堪えている体を引き寄せる。そっと頭を撫でながら、何も言わずに雨を見ていた。静かな鼓動を頬に感じたは、決して激しくない抱擁に涙を納めた。ひどく落ち着くその抱擁に、瞳を閉じて身を任せている。
そのまま時は経ち、雨音はいっそう激しさを増してゆく。
「止まない…ちっとも小ぶりにならないのね…」
顔を起こして、利広からそっと離れる。きっかけがなかった為に、今まで離れる事が出来なかったのだ。
いや…きっと離れてしまうのが嫌だったから、きっかけを作る事が出来なかった。
「このまま野宿かな…」
呟いた利広の声に、は小さく頷いて答える。
「寒くないのが救いよね」
そうは言ったが、利広から離れた体は若干の冷気を感じていた。
木の葉が遮るとはいえ、弾けて飛び込んでくる水滴までは防げない。
「そうだね。だけど、本当にこの場所と言う訳にもいかないなあ」
利広は考えるようにして、顎元に手を当てる。それを見守っていたの前で、何かを思い出したような表情になった利広は騎獣の手綱をとる。ひらりと跨り、に手を差し延べた。
「少し濡れるけど、我慢できるかい?」
「ええ…大丈夫だけど…?」
引き上げられると、すぐさま移動が開始され、瞬く間に二人の衣類は重くなっていった。視界も悪く、先が見えない。しかし、目的地にはすぐに到着したようだった。雨は遮られている。
利広はひらりと降りてに手を伸ばす。
伸ばされた手を取って地に足を着け、辺りを見渡すと小さな洞窟のようだった。
騎獣と利広と。
それでもう半分ほどが埋まってしまうほどの大きさ。
「まだあって良かったよ」
利広はそう言って奥へと進む。
とは言え、最奥はすぐに姿を現し、利広はを置いて洞くつの外に出て行く。
待たされていたは、両腕で自身を抱きしめ、洞窟を見回した。焚き火の跡のような物と、それのすぐ傍に、座るためなのか敷き詰められた葉があった。それを見ながら軽く震えが体を襲う。あれほど暑かったというのに、ひやりと冷たい洞窟内の空気に、濡れた体が辛い。
「大丈夫かい?」
洞窟の入り口から声がかかり、戻ってきた利広が見える。
腕には薪になりそうな小枝が抱えられていた。焚き火の跡の上にそれを置き、火をおこしてを呼んだ。
「ここに座るといいよ」
葉の敷かれた場所を指して言う利広に、は対岸に立ち、焚き火に手をかざしながら言う。
「ここは利広の避難場所?」
「そんな所だね。随分と前だけど、偶然みつけてね。丁度その時も、こんな雨だったかな」
「へえ…私、ここでいいわ」
「そこに座ると汚れてしまうよ。と言っても、葉の上でも多少は汚れてしまうけどね」
「利広のほうが良い物を着ているわ。私より利広がそこに座って」
「女性を差し置いてそんな事は出来ないよ」
「…じゃあ、私も同じように葉を集めて作るわ」
「乾いている葉は無かったよ。枝もかなり稀少だったけど」
「じゃあ、やっぱりこのままでいいわ」
そう言ってさっさと腰を下ろそうとしたの体を、利広が引き上げて止める。
「意外と強情だなあ」
笑いながらの手を引いて、敷き詰められた葉の近くに移動する。
「私は強情なの。だから諦めて利広が使ってよね」
最奥でさっさと丸まった獣は、利広に不思議そうな目を向けていた。早く座ればいいのにと、言いたげでもあるその目を見ながら利広は頷く。
「…分かった」
利広はそう言ったが、を持ち上げて腕に抱く。
「え?ええ??」
驚いていると、利広はそのまますとんと座り、胡坐をかいてその上にを乗せる。
「二人で座れば問題がなくなる訳だね」
あまりの事に絶句するを他所に、利広は火をくべなおす。
「ぬ、濡れてしまうわ」
「もう濡れているよ。それに寒いだろう?くっついていたほうが早く乾くし、温かくなるよ」
ごく当たり前の事を言っているような口調に、は一人動揺しているのを感じ、恥ずかしくなって俯いてしまった。
利広の足を椅子代わりにして、焚き火に向き直って顔を逸らした。腰元に回された利広の手は、焚き火に焙る様に出され、もそれを真似て手を出す。温かい光に寒さは消えていき、水を含んだ髪も軽くなっていく。
すぐ下に見えている利広の手を眺めながら、その手が少しずつ赤みを帯びて行くのを見ていた。
解凍されて行くようなその光景を見ていたは、無意識に手を伸ばしていた。そっと利広の手に触れると、じわりと温かい。
「まだ、冷たいね。寒いかい?」
後ろから覗き込んでくる利広に、大丈夫だと答えただったが、視界の横端でそれを捕らえただけで、焚き火から目を離す事はしなかった。利広の手から、自らの手を離したは、より焚き火に近づけるために腕を伸ばす。ぐんと温かさが増して、じわじわと手が温まる。
やがて、手を引いていったを確認してか、利広の体が後ろに倒れる。体重のすべてを預けていたは、同じように倒れいく。
しかし、すぐに傾きは止まり、後ろを振り返ると白と黒の横腹があった。
「少し寝たほうがいい」
そう言った利広はすでに眠そうな顔をしていたが、力を入れての体を横に向ける。も寝やすいようにと言いながら。
「こんな所で眠れるの?」
「まあ、野宿は慣れているから」
意外に思った。
野宿が慣れている、身分の高い人など聞いた事が無い。
「利広って不思議。ねえ、眠るなら私を降ろして。寝苦しいでしょう?」
「まったく寝苦しくないけど。わたしの上は居心地悪いかな?」
「ち、違うわ。でも…重いでしょう?」
「衾褥みたいで気持ちいいよ」
そう言って笑った顔は、すでに瞳を閉じている。
半ば諦めの境地に陥ったも、利広に習って瞳を閉じる。
しっかりと抱かれた腕に、多少の戸惑いと、騒ぐ胸の音を聞きながら、は徐々に夢の中へと進んでいった。
翌日、目覚めた二人は大きく伸びをした。
昨日の雨が嘘のように、からりと晴れわたる蒼天であった。
約束通り利広はを送り届ける為に飛翔する。驚くほどの速さで隆洽が見え、は急速に近づいた別れを感じていた。町の手前で地に降り立ち、は目前に控える隆洽の町を眺めている。
そして、振り返って笑う。
「ありがとう利広。とても助かったわ」
「どういたしまして」
丁寧に返してきた利広に、は一歩近寄る。少し戸惑ったが、すっと腕を伸ばして別れの抱擁を交わす。
「とても…楽しかった」
そう言うと、隆洽に向かって走り出す。
「!」
後ろからかかる声を無視して駆ける。
「!!」
再度強く呼ばれて、は立ち止まった。足は止めたが、何やら泣きそうな気分が、じわじわと湧き上がっていて、振り返ることは出来なかった。
「二ヵ月後に、また会おう」
後ろから投げかけられた声に、泣きそうだった気分は吹き飛んでいく。
「隆洽に帰って来たら、会いにいくよ」
は振り返って、少し遠くなった利広を見た。
「国府にいるかもよ?」
「尋ねるよ。知り合いだって言えば通してもらえるだろう?」
「通してもらえなかったら?」
「何としてでも通るよ。その時は、隆洽を回ろう。一緒に」
遠くの利広に分かるように、は大きく頷いて手を上げた。
「絶対よ!それまでに国府に入れるように頑張るから、絶対に会いに来てよ」
利広も大きく頷いている。
手を上げたまま、は踵を返す。
隆洽に向かいながら、時折手を振って別れを告げる。
二ヵ月後に再開出来るように、頑張ろうと思った。
母のためではなく、自分の幸せの為に。
町に消えていく人影を見ていた利広は、大きく息を吸い込んで騎乗した。
「さっさと用事を終らせて、なるべく早くに戻ってくるよ」
飛翔した空の上から利広は呟く。
そして、噂の出所である国を目指し、空を駆けていった。
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