ドリーム小説




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四季


〜秋〜






聞き間違うはずのない声が、背後から聞こえていた。

恐ろしい思いさえ感じながら、振り返った浩瀚の目前に、あの日消えた女の姿が映しだされる。

「あの……大丈夫ですか?その木で……何かあったんですか?」

声も姿もだというのに、女は浩瀚を知らない様子だった。

その状況に声を出せないままでいる浩瀚に、女は微笑を投げかけて言う。

「綺麗でしょう、その木。とてもいい香りを運んでくれるの」

喋り方までも違う女を見ながら、浩瀚はまだ絶句していた。

「何か……辛い事でもあったの?それともどこか痛いの?」

子童にでも問いかけるような表情で近寄る女は、浩瀚の知るではない事を証明するかのようだった。

「私、木犀(もくさい)よ。そこに住んでいるの。よかったらお茶でもどう?ずっとそこに居たら、金木犀にとり憑かれちゃうわよ」

くすりと笑いながら言う女に、やっと声を取り戻した浩瀚は問いかける。

「とり憑かれる?」

「うん。だから、早く離れたほうがいいわ。香りの虜になる前に」

「あぁ。そう言う意味か」

「あら、違うわよ。本当にとり憑かれるの」

「憑かれるとどうなる?」

「そうね……呆然と立ち尽くしてしまうわ。ずっとその場から動けなくなるの。なんだか分からないような後悔の念に心を囚われて、倒れてしまうまでその場から動けなくなるの」

「それは……怖いな」

今の自分なら、容易くそれを実行してしまいそうだった。

「ね、だから、家に来ない?金木犀の香りのお茶を入れてあげる」

にこりと笑った女は、浩瀚の返事を待たずに歩き出す。

にそっくりなその女を追って、浩瀚は足を進める。

一緒に金木犀の香りも付いてくるようだった。

後ろから見ても、のように見えるのに……。

そんな事を考えながら歩いていると、小さな木の家が見える。

ぽつんと一軒だけ佇んだその家の周りには、集落も何もなく、淋しい風景をかもしだしていた。

「どうぞ」

木の扉を開けて中に消えた女を追い、低い扉を潜って中に入る。

家の中は金木犀の香りが一層濃くなり、眩暈さえ起こしそうなほどだった。

を思い起こさせるその香りに、酔ってしまいそうになる。

「適当に座ってね」

丁度椅子が二脚あり、それも木で出来た物だった。

「この椅子は、手作りか?」

「うん。買い物にいく町でね、気の良い人が作ってくれたのよ」

「そうか……」

椅子に腰を下ろした浩瀚は、小卓に置かれた旌券に目が止まった。

奏国の物と瞬時に分かり、まだ淡く抱いていた期待は脆くも崩れ去る。

湯飲みを両手に持って戻ってきた木犀は、浩瀚の前に一つを差し出して、自分の分を置いて再び消える。

戻って来た時には、薄い焼き菓子が一緒に付いてきた。

「この焼き菓子ね、とっても評判なのよ」

そう言って一つを手に取り、浩瀚に渡した女は、自分も一つとって頬張る。

おいしそうに食べる姿を見ながら、浩瀚はやはりに見えて仕方がなかった。

一緒に食事をとったことなどなかったから、このような食べ方はしないかもしれないが、それでもその表情一つ一つが、を思い出させる。

それを打ち消すように、渡された菓子を口に含んでやり過ごした。

かりっと軽快な音がして、口中に金木犀の香りが広がる。

「ほう……」

感嘆の声が漏れた浩瀚は、焼き菓子を眺めていた。

「ね?おいしいでしょう?」

「確かに。こんな美味しいものを見ず知らずの男に出してしまっても、良かったのだろうか?」

「あら、構わないわ。だってそれ、私が作ったんだから」

驚いたように目を開いた浩瀚は、やはり重なるその影を見つめていた。

「お茶もどうぞ」

にこにこしながら観察していた女は、浩瀚の反応を聞きたいようだった。

言われるままに口に入れたお茶は、やはり金木犀の香りが漂っていた。

「うん。良い香りがする。味も高級なお茶に負けていない」

「やった」

片腕をあげて喜ぶ女を、浩瀚は目を細めて見ていた。

に似ているだけあって、目を惹いてやまない。

しかし、初対面である事をさすがに思い出した浩瀚は、その目を逸らした。

逸らした先に旌券が飛び込み、それを見つめながら茶を含む。

「木犀と言うのは、字か?」

「そうよ。金木犀のお茶を入れるから。私、香りをそのままに保存する方法を考案したの。それで商売を始めたんだけど、これが結構評判よくって」

再びを捕らえていた瞳を、意思の力でなんとか逸らし、誤魔化すように質問した。

「何故、奏からわざわざ慶に?この国はまだ落ち着いていない。ここも妖魔に襲われないとも限らない」

「でも王がお起ちでしょう?」

「それはそうだが……せめて人里へ……」

と言いかけて、瞳は知らずに元に戻る。

愛しい人の面影を映す、その顔を見つめながら続きを言う。

「人里へ行くと、金木犀が取れなくなるのか……」

「その通り。それだけじゃないけどね」

「他の理由は?」

「とり憑かれているの。私が。あの金木犀に」

「では先ほどの話は……」

「私の事よ」

「憑かれているとは、一体……」

「分からないの。自分でもよく。ただここから離れたくないの」

木犀はそう言って、片目を閉じる。

「ごめんなさい。告白します」

悪戯っぽい笑顔でそう言われ、浩瀚は心臓が弾む様な錯覚がした。

「実を言うと、あの場所に立ってほしくなかったの。誰にもあの木に触ってほしくない。だからお茶を飲みませんかって……ごめんなさい」

ぱんっと手を打ち鳴らして、拝むように浩瀚に向かって頭を下げた。

言われた浩瀚は弾んでいた心臓が、急激に軋んでいる事にきがつき、唖然とした。

「やっぱり気を悪くした?とり憑かれていると思って、許してくれると嬉しいんだけど……」

「あ……いや。――――――何故?」

「何故って?何となくなのよ。誰もあそこに立ってほしくないの。それなのに、今日はあなたが立っていた。心臓が千切れてしまうかと思ったわ。だから余計に早くあの場から離れてほしかったのに、何か声をかけづらくて……何があったの?」

木の前で問われた事を再度問われ、浩瀚は答えに窮していた。

「言いたくないならいいの。私も何故って聞かれたら困るから……」

「そうか……」

呟くように言った浩瀚は、湯飲みを手に取り茶を飲んだ。

鼻腔を突く甘い香りに、を思い出す。

浩瀚は深い息を吐いて、湯飲みを小卓に置き、木犀に目を向けた。

「あの木は……わたしの大切な人との思い出が眠っている。その人と初めて出会ったのがあの木の下。一目見て恋に落ち、激しいほど愛しく感じていた。だが……もうわたしの許へは帰ってこない。この手をすり抜けて、消えてしまった。この季節になると、金木犀が私を苦しめる。彼女の思い出を運んでは、苦しい思いだけを残して消えていく……」

黙って聞いていた木犀は、静かに頷いて浩瀚に言う。

「じゃあ、あなただけはあの木に触れてもいいわ。その気持ちは、よく分かるもの」

「よく……分かる?同じような思いを?」

「きっとね」

「きっと?」

に似た女は旌券を手元に引き寄せた。

「これ、どこの国のか分かる?」

「奏南国の……」

「正解。でも私、慶の人間なの」

がたん、と音がして、浩瀚の座っていた椅子が床に転がる。

立ち上がったままの浩瀚は、驚いた女の顔を見つめていた。

「そ、それで……何故奏に……」

声は掠れて思うように喋れない。

木犀(もくさい)は驚いたまま続きを話す。

「何故って、前の女王が女を追放しろって言ったからよ。奏に逃げたの」

浩瀚は脱力していくのを感じながら、椅子を起こして座りなおした。

「すまない……」

「ううん。ちょっとびっくりしたけど。でね、私は国を出る時に、凄い怪我をしていたのね。妖魔に襲われたから仕方がないんだけど。それで、治療をするなら巧より奏がいいって思った親切な人が、船に乗せてくれたの。私は運が良かったわ。奏でも親切な人と知り合って、その人に助けられた。きちんとした旌券を用意してくれて、身を立てる事が出来るまで、面倒を見てくれたんだから。でもね、慶に戻ってきたの。新王が立ったって聞いて」

どう反応していいのか分からなかった。

それは淡い期待を抱く、自分の心のせいだとは分かっていたが、それでも動けないでいた。

……と言う名に聞き覚えは?」

無意識のままそう聞く浩瀚に、木犀は首を傾げて考えた。

ややしてから、ないと告げる。

それで完全に気落ちしてしまった浩瀚は、やっと解凍された体を動かし、茶を飲んで気を静めていった。

「私ね、記憶がないの。慶にいた頃の記憶が。だからひょっとしたら、その人を知っているかもしれないけど、今は分からない。ごめんなさい」

申し訳なさそうに言う女に、浩瀚は再び体が固まっていくのを感じていた。

湯飲みを手に持ったまま、空にある小卓でも置いたかのように固まっていた。

しかしに似た女はそれに気が付かずに、自分の手に持った湯飲みの中を見つめて言った。

「でもね、記憶の何処かで、慶に帰らなきゃって声が聞こえたの。それで、何とか思い出したのが、あの木。何だか分からないけど、ここに居たいのよ」

浩瀚は湯飲みを静かに置いて、立ち上がった。

立ち上がった気配に気が付き木犀は顔を上げる。

「どうかしたの?」

「少し、付き合ってもらっても良いだろうか?」

「え?ええ……」













飲みかけの物をそのままに、木犀は浩瀚の案内で歩きだす。

すると、金木犀の丘へと戻ってくる。

金木犀の木の後ろで、十数えたら左から出て来いと言った浩瀚に、木犀は不思議に思いながらも頷いた。

「一、二、三……」

数えながら、まだ疑問でいっぱいだったが、あの男には何故か逆らえないような気がしていた。

そう言えば、まだ名も聞いていない。

後で聞こうと考えながら、数え終わろうとしていた。

「――――――八、九、十」

そろりと左から顔を出す。

浩瀚の姿は消えており、何処にも見当たらない。

「あら?」

体ごと前に回り、辺りを見回した。

「きゃ……」

突風に煽られ、あがった小さな悲鳴。

髪が風に靡(なび)き、金木犀の香りが辺りに広がる。

収まった突風に、小さく目を開いた女は、そこに男の姿を見つけた。

豊かな袍の下に隠れて手は見えていないが、おそらく腕を組んでいるのだろう。

すっとした佇まいに、瞳は奪われていく。

ひらりと舞う橙の小さな花と、端正な顔立ちの男。

そしてその男は声を発す。













「もう一度聞こう。……名は何と?」

『名は何と言う?』











「え……」

一瞬聞こえた幻聴に、女は動揺しながらも名乗る。

「木犀、よ……」

『――です……』











「私は浩瀚と申す。一緒に、来てはくれないだろうか」

『そうか。私は浩瀚と申す。一緒に、来てはくれないだろうか』











「一緒に?どこまで行けばいいの?」

『どちらまでご一緒すれば良いのでしょう?』











「金波宮まで」

『麦州の州城まで』













重なる情景。

一度交わしたような会話。

「麦候……浩瀚……さ、ま……」

小さく呟いた声は、それでも浩瀚に届いたようだった。

ゆっくりと歩み寄った浩瀚は、女の手をとって、その甲に口付ける。

欠けていたものが、一気に押し寄せるようにして、脳裏に戻ってくる。







『麦州の州城はとはいったい……』

『州候の任についている』

『まあ……そのような方が何故私のようなものに……』







。私を……好いてくれていたのか……?』

『好いていない方のもとにずっとおれるほど、殊勝な気性は持ち合わせてございません。私の心を疑っておいでだったのですか?』







。名を呼んではくれないのか……』

『麦候……その御名は私などに呼ばれて良いような、軽い御名ではございません』

『軽くも重くも関係ない。愛しい者に名を呼ばれたいと思うのは、そんなに贅沢な願いなのだろうか』

『浩瀚さま……。御名をお呼びしても、良いのですね……』







そうだ。

自分はこの男に目を奪われ、心を支配されていた。

何よりも愛しく、何よりも大切で……片時も傍を離れるのは嫌だった。













「浩瀚さま……ほ、本当に?本当に浩瀚さまなのでしょうか?」

見つめる先にいるはずの浩瀚の顔は、徐々に歪んで行き、ついには見えなくなった。

「長い間、すまなかった。もう国は落ち着いた。一緒に帰ろう」

「何故……?」

途切れそうな声で問いかけられた浩瀚は、を腕の中にしまいこんだ。

今、金木犀の香りは、から浩瀚へと届けられている。

「何故浩瀚さまが謝るのです……。私は不覚にも浩瀚さまを忘れておりました」

「辛い思いをさせたな……本当にすまない」

「お謝りにならないでくださいまし……」

「いや。あの時、の言うとおりに投獄しておけばよかった。わたしだけの檻を作り出して、呪で隠す事も出来たはずなのだが……港に向かわせてしまった。妖魔に襲われたと聞いても、州城を抜け出して向かう事が出来なかった。すぐにでも向かっていれば、この手で助ける事が出来たと言うのに……」

「州候があの時、州城を空けて良いはずございません……だから、謝る必要などないのです。謝るのなら、私のほうです。すぐに戻ってくるべきでした……」

「こうして戻って来た……記憶を失いながらも、戻ってきてくれた。すまない……迎えに行くと言っておきながら、本当にすまない」

「――がい……お願い……謝ら……ない、で……」

「ではも謝ってはいけない」

「私は……私が許せません……浩瀚さまを忘れてしまった、なんて……」

「どこかで覚えていたからこそ、ここに住んでいるのではなかったのか?わたしは死んだと思っていたのだから、まだ忘れるくらいのほうがかわいいと思うが」

「死んで……私は、死んだ事になっていたのですか?」

見上げた浩瀚は小さく頷いて答えた。

「死んだのだと思っていた……妖魔に襲われて死者、負傷者が数名出たと聞いた。生存者の中にの名を探させたが、そこから名を見つけ出すことが出来なかった。―――もう、この手に抱く事は叶わないのだと……」

だが、は戻ってきた。

いつもの香りと供に。

初めて出会ったこの丘に。

「浩瀚さま……」

名を呼ばれることの喜びを全身で感じながら、浩瀚はを見つめる。

潤んだままの瞳には、橙の花が宿っている。



口付けて抱きしめると、新たな芳香が放たれる。

あれ程までに辛かった芳香は、もはや辛苦の象徴ではない。

を彩る物の一環としてただ存在する。

腕に抱かれて涙するのは愛しい金木犀。

その化身なのかもしれない。

なぜなら、自分は見事にとり憑かれてしまったのだから。

もう、離れる事など出来ない。

再会した二人を祝うように、金木犀が雪のように舞っていた。





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雪のように舞う金木犀が、本物の雪へと変貌を遂げて冬に繋がります。

                                    美耶子