ドリーム小説
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月の花
=2=
夜中を過ぎてようやく重責から解放された尚隆は、すぐさま朱衡に問う。
「もうこんな時間ですよ。眠っておられるでしょう」
そうか、と言った主の顔を、朱衡は不思議そうに覗いた。
「あれは…いったい何の模様なのです?」
「カモンだ」
「カモン?」
まだ不思議そうに言う朱衡に気がつき、尚隆は白紙に筆を走らせる。
『家紋』と描かれた紙を見せて、朱衡に説明する。
「蓬莱では血統を大切にする。特に名家と言われる家が、その印として掲げる物だ。旗にも使われるし、着る物にも織り込まれる」
「では、やはり蓬莱の方なのですね」
「そうだ。こちらに国が複数あるように、蓬莱にも国が複数ある」
「ああ、それで蓬莱ではないと」
恐らくな、と返した尚隆は、成笙に渡された紙面を取り上げる。
「これを家紋とする者に、縁がある訳ではないが…ない訳でもない」
それをじっと見ていた朱衡は、では、と言って戸口に向かう。
「起きているか確認して参りましょう」
朱衡が出ると、そこには成笙が立っていた。
話しを聞いていたようで、まだ起きていると朱衡に告げる。
「もう終ったのか?」
「ええ。今日の所は一先ず。仕方がないですから、ご褒美として会わせてさしあげますか」
「ご褒美ってお前…」
「飴と鞭ですよ」
「子童か、あれは」
「それでは子童が気を悪くしますよ。それに、子童のほうがよっぽど聞き分けが良い」
きついことをさらりと言った朱衡は、絶句した成笙の案内で海客の許を訪れた。
その海客は張り出した露台に腰を下ろし、雲海を見ていた。
手には袍のような物を抱えている。
東雲色の襦裙に身を包んだその姿は、やはり女性にしか見えない。
なぜ女かと問われたのか判らないまま、朱衡はその女性に近寄って行った。
「海はお好きですか?」
はたと顔を上げた女は、後ろを振り返る。
「いえ…不思議だと思いまして」
「そうですか…例の方がお会いになりたいと。いかがなされますか」
どう言った立場の者なのかは、伏せながら様子を見る。
「私は構いませんが…まだ起きておられるのですか?」
「ええ。溜まった仕事をしておりましたから。あの方のほうは一刻も早く会われたいようですし」
「では参ります」
すっと立ち上がって歩き出すのを見ながら朱衡は思う。
立ち振る舞いは優雅で、身のこなしはすっきりとしている。
蓬莱の事は知らないが、さきほどの主の話しを思い出し、きっと名家に生まれたのだろうと思う。
王の自室へと連れて行った朱衡は、戸口までで遠慮し、そのまま扉の前で成笙と待つことにした。
「大内花菱」
入ってきた女に対し、尚隆は開口一番それを言った。
女は驚いて目前の男を見る。
何処の誰とも聞かされていないこの男は、何故それを知っているのだろうかと考えていた。
紙が積まれた書卓の向こうに見える女を尚隆は見ていたが、女の抱えている着物に視線を移した。
しかし、その事には触れずに女に言う。
「州候から問い合わせがあった。と言っても分かり辛いか。蓬莱の…何処の国から来た者だ?」
「周防国から参りました。
と申します」
「大内の支族の者か」
「お仕えしておりました」
「そうか…」
二人ともが口を閉ざした。
その心中は違ったが。
尚隆がまだ蓬莱にいた頃、妻がいた。
その妻は大内の傍流であったが、瀬戸内の屋形で父子供に朽ちた。
その後国を継いだが、小松の民を尚隆は生かすことが出来なかった。
跡目を継いでわずが数日の内の出来事であった。
雁州国の王となり、新たな民を前にしても、それが消える訳ではない。
大内へと落ち延びよと言った、老爺の顔が思い起こされる。
「大内をご存知ですか?」
しばらくして口を開いたのは
だった。
「小松を知っておるか」
反対に聞き返された
は記憶を探る。
「小松と言うと…昔大内の手にあったとされる、瀬戸内の水軍でしょうか。村上に滅された」
「そうだ」
「それなら存じ上げております。とは言っても、話に聞いただけですが…」
はそう言って、手元に視線を落とす。
「大内も…同じ道を辿りましょう…」
「何?」
「陶隆房が謀反を…私は、若様をお世話させて頂いておりました。義隆様と若様と供に、敗走の途中でございました。追手を霍乱するために、家紋の入った着物を着て海に飛び込んだのです」
そう言って
は顔を上げた。
「生き延びて下さいと…そう申したのですが…」
重なる情景に、知らず口を突いて出た言葉があった。
「民のいない国に生きていくのは、辛かろうよ」
「民は関係なかったのです」
尚隆は自らの口を突いて出た言にも驚いていたが、それをあっさりと返され、さらに驚いてしまった。
「そう、きっと民は関係なかった。若様にしたって…」
「若と呼ばれて育ってきたのなら、それなにり背負うものがあろう」
「若様はまだ七つでした。民と触れ合う事など、機会すらなかったのです。それにいくら聡いお子でも、生死がかかってそのように考えますでしょうか?足が痛いと…お泣きでしたから…」
「七つ…あちらの大火は、まだ消えぬのか」
「はい…。戦乱の世にあって、義隆様は風変わりなお方でした。昔は武断の方でしたが、一度尼子に敗れてからというもの、京から僧侶や公家お招きになられ、学問に没頭して行かれた。武断の臣下達がそれをよく思わず、ついには陶が謀反を起こしたと言うのに、鷹揚に構えておられて…困ったお人でした。ですから民の事までお考えでしたでしょうか…いえ、考えていなかった訳ではないのでしょうが…戦乱の世にはそぐわない考えをお持ちでしたから」
「それでは立ち行かぬだろう」
「ええ、ですから謀反が起きたのではないかと…陶も問題のある人ですが、臣下には慕われておりましたから。なれど…お小さい若様には生きていて欲しいのです。仇を取ってもらいたいのではございません。ただ、人として幸せになって頂きたいのです。畑を耕して、好いた女子(おなご)を見つけ、揃って老いて行く。そう言った幸せとは、程遠い地位におられた若様を不憫に思います…」
絶句した尚隆は、随分と時間が経過してから辛うじて、そうか、とだけ言った。
再び沈黙が降りる。
大内の傍に居ながら、こういった考えをする者がいようとは…。
お家大事、と考えるのが普通だと思っていた。
だからこそ、老爺は言ったのだ。
大内に庇護を求め、国を再興しろと。
民のいない国で、どのような国を再興しろと言うのだと、激しく怒ったのをまだ昨日の事の様に覚えている。
脳裏から焼きついて離れぬ記憶の一部として。
「小松…と?」
小さく言った声をしっかりと耳に入れた尚隆は前を見る。
声を発した女は、着物に入った家紋を見つめていた。
「小松の縁者であらせられますか?」
「まあ、そんな所だ」
「村上は小松を打ち破り、瀬戸内を制覇。自らを海の大名と名乗り、どの大名にもつかず離れずだと。因島村上は毛利に加担している様子。ですが、来島村上は河野へ。能島村上は孤立しておりますが、来島とは結託している模様です。恐らく…謀反に揺れる大内に、村上の手が伸びるでしょう。陶に負けぬほど、能島の名は有名ですから」
だから同じ命運を辿ると言ったのだと、この時やっと理解した。
それでよく平然としていられる。
「涙も、枯れたか」
染み渡るような声が聞こえ、
は顔を上げる。
「自分でもよく…分からないのです」
あの追手では到底逃れる事など出来ない。
追い詰められれば、義隆とてもはや諦めるより他に手はなく、義尊もろとも自害するだろう。
そして義隆、義尊を失った大内は、陶によって引き継がれる。
どれほどの者が従うと言うのか…恐らく毛利はこの機を逃さず、すぐさま因島に連絡をとり、能島をも取り込むであろうから、陶に勝ち目があるとは思えない。
これで、大内は滅ぶのだろう。
「分からない?」
「はい…大内は滅びます。若様も生きてはくれないでしょう。まだ幼少の頃よりお世話をして参りました。ですからそれは、身を切られるより辛い事のはずなのですが…涙が出ないのです。ここが夢の中のように思うからでしょうか?」
「夢の中?」
「はい…言葉の理解できない人がいたかと思えば、話せる人もいる。目や髪の色は見たこともない人々がいて、さらにここは空の上だとか。夢かと問えば夢ではないと言われましたが…」
ああでも、と
は言い置いて続ける。
「私は失望していたのかもしれません。戦乱の世に…。隙あらば血族であろうとも侵略を厭わない。恩義忠義を立てた者ですら、簡単に君主を裏切る。それに巻き込まれる民の苦しみは、計り知れないものがございましょう。そこから離れて尚且つ生があるのですから…それが嬉しいのかもしれません…」
「ならば何故大内の身代わりになった?単身逃げて生き延びればよかったのではないか?」
「謀らずともそうなったようですが…あえて申しますと、それが私のお役目であったからです。何かの時には盾となり、死んで本懐を遂げる…そう言って育てられて参りましたから。それが自分の意思であろうと、なかろうとです」
「自分の意思ではなかったと?」
「恐らくは…足止め程度でしたら、あの場で斬られればよかったのです。なれど、私は海へと飛び込んだ…最後まで知られずにいれたら、時間を稼ぐことも可能でしょうが、引き返されては意味がない。今となっては生きるため、一縷の望みをかけたのではないかと思うのです」
はなんとも複雑な表情をしている。
自分の気持ちが何処にあるのか、分からないようだった。
泣きたいようにも見える。
だが、ひどく落ち着いている。
「あの…」
その顔を観察していた尚隆は、小さく言った声に返事をする。
「なんだ」
「一つ気になったのですが…お聞きしてもよろしいでしょうか」
「構わん。なんだ?」
「小松の縁者、とは…?私が聞いた話では、小松は完膚無きまでに崩落されたと…まだ小さい頃に聞きましたので、確かとは言えませんが…民の一人も残らなかったと…」
尚隆は
を見つめていたが、ふいに目を逸らしてそれに答えた。
「そのとおりだ」
「では、生き残り…?」
それに答える声はなく、尚隆の目は逸らされたままであった。
「申し訳ございません。不躾な質問でございました…」
「屋形もろとも国主であった親父は死んだ。最後に国を継いだが…誰も救う事は出来なんだ。俺は一人生き延びてしまった。ここで、生き恥をさらしている」
息を呑む音を聞きながら、尚隆は正面を見る。
「生き恥では…ございませぬ」
「なんと?」
「生き恥ではないと申し上げたのです」
「生き恥ではないと?俺は民に何も返してやれないまま、死なせてしまったんだぞ。これを恥とせずに何とする」
「それは時代のせいでしょう。直接的には村上と言う事になりましょうか…瀬戸内を制覇する為には、小松を破るしかなかった。同じ水軍同士ですから、投降は許されないでしょう。恐らくは謀反を恐れて、村上はそれを跳ね除けるはずです。そもそも自害すると言う考え自体がおかしいのです。君主が自害して、民の何が救われると言うのです?民を思う君…」
そこまでを言って、
は声を詰まらせ、方向を変えた。
「生き残り…?小松の?あの…小松は五十年以上も前に…確か嫡子の三男がお家を継いだと…い、いえ…当時の御年を考えますと…八十は超えておられる事に…」
「年を数えておれば、それぐらいだろうな」
どのように見ても八十を超えているようには見えないその男を、
は驚愕の眼差しで見ながらも、知らず指をさしていた。
「で、で、では…こ、これは、一体…」
「なんだ、まだ何も知らぬのか?」
「う、あ…あの…え…う…」
口をただぱくぱくさせて、唸るだけの女を見て、尚隆は固まっていた表情が解れていくのが分かった。
もうこの場のどこにも悲壮感はなく、――とは言っても元よりあまりなかったようにも思うが――深刻さもなかった。
そうなると、ただ反応を楽しめる余裕が出てきた。
さっと立ち上がって、書卓から前へと出る。
「足はあるぞ」
そう言って足を見せる。
しかし、ますます混乱したような表になった
は、近づいてくる尚隆を見ながら、だんだんと意識が遠のくのを感じた。
もう、自分の許容範囲を軽く超えていたのだ。
「おい…大丈夫か―ぉぃ―――」
高音の耳鳴りが劈くように聞こえ、尚隆の声が遮られている。
倒れそうになる体を、起こすための気力も失われつつある中で、
は何者かによって受け止められるのを感じた。
受け止められた事で安堵したのか、一気に力が抜けて、夢の中へと進んで行ってしまった。
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