ドリーム小説
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月の花 =5=
玄英宮で帷湍が怒りを爆発させた数刻後、二人は擁州の地に降り立った。
さっそく調査に乗り出したは、心なしか安堵したように見える。
川沿いを歩いて周り、土手の土を手に取り、何やらぶつぶつ言うを、尚隆は黙って見守っていた。
土手の上に回り、さらに川沿いを下って行き、対岸へと移動した後、また戻って来る。
「うん…やはり…。こちらも柔らかい…」
はそう言って土手から川を見下ろした。
「堤を作るのか?ここに」
尚隆はそう聞きながら、と供に川を見下ろした。
「僅かばかりの予算で、なのですが…」
返ってきた言に、尚隆は予算を聞きだす。
「それでは不可能だろう?」
「ええ。だから私が来たのです」
そう言った女の顔を見た尚隆は、なるほどなと思う。
本来ならここで、にこりとするのが普通なのだろうが、は表情一つ変えずにそう言ってのけた。
さきほどの怯えた表情が幻のようでもある。
「なんとかなりそうか」
「ええ」
短く言った声音の中に、嬉々としたものを微弱に感じた尚隆は、再びを見た。
しかし、やはり無表情のままだ。
三年前にもこんなに表情がなかったのだろうかと思い、思い出そうとしてみるが、これが殆ど思い出せない。
「ああ、そうか…」
菱形の家紋ばかりが浮かんでは消える。
ふと漏れた声にの顔が向けられたが、尚隆は何でもないと言って手を振る。
三年前、二人とも顔など殆ど見ていなかったのだ。
記憶するほど、長い時間見ていなかった。
他に気を取られていたのだ。
着物に縫い付けられた家紋ばかりを…見ていたように思う。
沈黙の降りるたびに、そこに目が行くのだ。
しばらく歩き回っていたは、ふと足を止めて土手を下って行く。
川原に降り立ち、中を覗き込んで首を振った。
後を追って来た尚隆は不思議に思い、どうしたのだと質問する。
「浅いものですから…」
「浅くとも、秋の長雨の頃には増水する。土手は高いが、この地の土は脆い」
「ええ。それはもう解決したから良いのです」
「解決した?では、何故浅いといけない?」
「そうですわね…ちょっと思いついたものですから」
先ほどから、どうにも的を射ない。
何がとも、どうしてだとも言わないのだ。
それからさらに川原伝いに歩いていたは、ふいに伸ばされた手によって引き寄せられる。
強い力で引き寄せられたは、次いで大きな手が口元を押さえるのを感じた。
何事かと身動ぎするが、まったく体が動かない。
しばらく、そのままじっと耐えていると、ようやく開放される。
「何があったのです?」
「追手がな…いや。すまなかった」
「いえ…追われているのですか?禁軍なのに?」
「黙って抜け出して来たからな」
「黙って?将軍に怒られてしまいますわよ」
「何、いつもの事だ。気にならん」
「まあ…では本来は、違う方がここまで来て下さる予定だったのですか?」
呆れたような口調ではあったが、その表情に変化は無い。
一人苦笑して土手を登り、手を差し出す。
「飯にせんか?」
「はい。追手のほうは大丈夫なのでしょうか?」
「もう過ぎていった。たまは隠してあるから大丈夫だ」
伸ばされた手を引き上げて、尚隆は森の中へと入って行った。
木の根を椅子代わりに、持って来た飯を広げてに渡す。
無言のまま食べ始めたは、何やら考えている様子だった。
予算の事だろうか、治水の進め方だろうか。
「その顔は、元々か?」
聞くつもりの無い事を、知らず口に出していた尚隆は、言い終わってからそれに気がついた。
「その顔と申しますと?」
相変わらずの表情のまま問い返すに、尚隆は手を上げてそれを振った。
「つまらん事を聞いた。こちらには慣れたか?」
「…。はい」
「あちらと比べて、どうだ?」
「良い事もあります」
「良い事?」
「こちらも内乱はあるようですが、周防を取り巻く諸国と比べて、泰平の世であります。他国に侵入してはならぬと、天が定めているからでしょう」
「なるほどな。それが一番良い事か?」
するとは少しだけその表情に変化を見せる。
小首を傾げて、思案するような顔になり、やがては尚隆の目を見て言った。
「この世界で、一番良いと思ったのは、王が居ることです。絶対的な王の存在。それは、自ら勝ち取る戦乱の覇者ではない…麒麟という神獣が、民の意を受けて選定するのだとか。王は神となり、民は神を崇める。しかし、民の為にならぬ王は、自ら倒れるのだとか。それは君主のあり方を、そのまま表現したような事でございましょう?」
「君主のありかた?」
問いかけた先に、伏せられたの顔があり、その表情は伺えない。
「小松さまも君主であられたのでしょう?でしたらお分かりになられませんか。民は王なのです。王の一部なのです。民を失うと言う事は、体を剥ぎ取られるのと同じでございましょう?実際、それを親身に思うか思わないかはともかく、民が減って困るのは、なりより君主ですわ。兵力であったり、税であったりと理由は様々ですが…体を剥ぎ取られれば、生きてはいけませんでしょう」
「…そうだな。王とは民を生かす為にある。小松の民を生かしてやれなかった、俺の言う事ではないがな」
「そのような事を仰ってはいけません。そのように親身になって考えられる君主ならば、民は喜んでその命を預けます。恩義や忠義を捧げる事が出来るのです。それは偽りや形式のものではなく、深く心に留め置くものなのですよ」
「お前は…不思議な事を言う」
「不思議でございますか?」
さも心外そうな声色と供に、尚隆を見たの表情は、やはり無表情であった。
「ああ…だがその王の一部を、王自ら屠る事もあるように思うが」
罪人も民であると言う事を言いたいのだろうか。
それとも他に何か含まれたものがあるのだろうか。
はそう考えながら、聞いてみることにした。
「善人を、でしょうか?」
「なかなか鋭い所を突くな。だが、必ずしも悪人ではないと言ったら?」
悪人ではない罪人の事だろうか。
それにしても同じである。
罪人である以上、それを許してしまっては、秩序が乱れてしまう。
はしばらく黙っていたが、前方を見据えながらその重い口を開けるようにして話す。
「以前、謀反があった事は申しましたでしょうか?」
尚隆はただ黙って頷き、続きを待った。
「謀反の発起人は、陶隆房。陶は大内の家臣筆頭でございました。武勇に長けた方で、麾下にも大層人気がございました。出雲での敗走の際、陶は麾下を励ましながらよく纏めておりましたし、麾下の者に残り少なくなった兵糧を与え、自らは水をすすり、時には雑魚の腸(はらわた)をすすって耐え忍びました。そのような大将でしたから、麾下にはとても慕われておりました」
「そのように出来た人物が、何故謀反を?」
言いながら尚隆は似たような話を思い出していた。
他ならぬ、この国で起きた謀反だった。
元州で起きた謀反の発起人もまた、その正体が明らかになるまでは、臣下に慕われていた。
それは一つの州が一丸となって謀反に参加するほどに。
もう遠くなった三十年も前の出来事。
「はい。陶は智略に富み、武勇を競っては天下一ではないかと思っておりました。君主に対しての恩義も篤く、よく仕えていたと思います。ですが、彼には唯一つだけ欠点がございました」
は前方に向けた瞳をそのままに、さらに続いて語る。
「彼の欠点とは、自らの非を認められぬと言う事でした」
まさに同じような状況に、尚隆は軽く目を開いてを見ていた。
「あれは尼子攻めの時でございました。被害を最小限にと思ったのか、勝利さえすればいいと言った義隆様の命(めい)を、陶を始めとする家臣が無視したのでございます。彼らの欲したものは、大きな勝利だったのです。しかし、相手とて莫迦ではございません。単純で浅はかな考えが通用するはずもなく、大内軍は大勝利どころか、大敗北を迎えたのです」
「ひょっとして、その敗北の原因が君主にあると?」
「はい。そのように思い込まれたご様子でございました。そもそも不服であったのが、そのような形で現れただけかも知れませんが」
「そうか…この国でも、似たような謀反があったな…」
「それは?何時ごろの事でございますか?」
「三十年ほど前だ」
「でしたら、王は今と同じ方なのですね。こちらには天意と言う物がある。その謀反の際、天意に沿ったのが、王だったと言うことでしょう。あちらには、天意はない…単純に力の大きい者が勝つ。同じような軍制ならば、その時の運だけが、すべてを決するのです」
そういう意味では、の君主は運がなかった。
元々なかったのか、尽きたのか、それは分からないが、間合いにも恵まれず、最終的には天候までもが裏切っていった。
人であったのだから、当たり前なのだろうが…
だが、こちらの王が神であるのなら、それらは何の関係もない。
の中で神とは、天意そのもののような気がしていた。
決して垣間見る事の出来ない、絶対的な世界であった。
「そうだな…確かに、その通りだ」
「巻き込まれた若様だけが、不憫でした…」
そう言っては一度言を切った。
ややしてから、随分と前に問うた事への返答が返ってくる。
「私はこちらに来てからというもの、笑い方を忘れたように思われます。怖いと思う感情は残っているようですが、笑うというものが、どんなものであったのか…雁は良い国です。私はこの国が好きです。きっと王も良い神なのだと思う…実際、地官のお仕事は楽しく、やりがいのあるものです。他官府の方々もよくしてくれますし…ですが、どうやって笑えばよいのか、今の私には分からないのです」
「…こちらに来て、涙を流した事は?」
「ございませぬ」
「それも忘れたと言うか…」
そう言えば、の顔がふと尚隆を見る。
表情は心なしか、哀れんでいるように見えた。
それを不思議に思い、ただ見つめられるままに、見つめ返していると、の手がすっと伸びてきて、尚隆の頬に納まって止まる。
「若様は、何故お泣きにならない…」
心の奥底を見透かすようなその瞳に捕らえられ、尚隆は動くことが出来なかった。
何故、若と呼ぶ?
「大きなものを背負ってはいても、人間である事には違いないのです。それとも、私のように泣くことをお忘れか」
泣くのを、忘れた?
自らの頬に当てられたの手を、上から包み取って力を込めて握り返す。
「は、泣く事を忘れたのか?」
「はい。どうやって涙を流せばいいのか…私には分かりません。小松さまもそうでしょうか。小松の民を思って、その心が悲鳴を上げておられる。死んだ民は戻りませぬ。それを憂いて泣く事は、恥ずかしい事ではございませぬ。それだけ民の一部であったのですから」
握られた手は痛いほどに力をかけられていたが、はその痛みすら感じなった。
尚隆の心の痛みが流れてくるようで、手の痛みなど些細な事にかまけておれなかったのだ。
「民の、一部…?」
「民は王の一部です。王もまた、民の一部です。国とは…双方どちらが欠けても成り立たないからです」
きつく握られた手は不意に開放されたが、その直後、体を引き寄せる腕があった。
後頭にうな垂れるようにして、乗せられている尚隆の顔を感じたは、その背に手を回し、子をあやす様に優しく撫でていた。
「泣くことが出来るのなら、泣いておしまいなさい。溜め置いても、何も良い事はありませぬ。我慢するだけが、男ではありませぬゆえ」
に回された手に力が篭り、一瞬震えるような振動があったが、その後は硬直したように固まっていた。
篭った力のせいで、背を撫でる腕は動きを封じられたが、はすべてを了解したかのように、ただじっと時が過ぎるのを待っていた。
早く咲いた秋桜だけが風にたなびき、それを見守っていた。
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