ドリーム小説
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月の花 =7=
一方その頃、地官府に戻ったは、自分を尋ねてきた人物と対面していた。
「小松さま」
ぱっと表情を明るくして駆け寄ってくるを、尚隆は黙って見ていた。
「本日はどうされたのですか?」
「聞き損ねた事を聞こうと思ってな」
「聞き損ねた事?」
は首を傾げて次の言葉を待った。
先日見た無表情の女は何処にもおらず、ただ愛くるしいまでの表情に取って代わっていた。
それに苦笑しながら、尚隆は用件を話す。
「川が浅いと言っておっただろう?浅くてはいけない理由を聞かせてもらいたい」
「なぜ夏官の小松さまがそれを知りたがるのです?」
「教えたくはないか?」
「いえ。少し疑問に思っただけですわ。そうですね…浅くてはいけないと言う事はないのですが、深いなら他に使い道があると思いまして」
「他の使い道?」
「はい。でも川の形にもよりますし、広く見なければはっきりとした事は…」
「例えばどう言った形だ?」
「広くて、深くて、長い川ですわ」
「広くて深い…?漉水ではどうだ?」
「靖州にある漉水ですか?」
「そうだ。靖州から元州を抜けて、黒海へと続いている。氾濫を繰り返すから、土地が良く肥えて、農作物には適した川と言えよう。だが、その氾濫のしかたが半端ではないな。州都付近から堤を作らせてはいるが、まだ完全とはいかぬ」
先の乱の際に作った堤が、まだ機能を果たしているが、それだけが全てではない。
漉水沿いを人が住める土地にするには、まだまだ時間がかかるだろう。
「なんだ、うずうずしたような顔をして。見にいきたいのか?」
「え…いえ…」
「素直に言っても罰は当たらんと思うがな」
「その…少しだけ…でも、大司徒に怒られてしまいます。前回帰ってきて早々に、もう調査は駄目だと言われましたので…」
「俺が同行したからだろう」
「?」
先ほどからずっと、不思議そうな顔をしているを見て、尚隆は自分も同じような事をしている事に気がついた。
は全てを言わない。
だが、それは己も同じである事を、失念していた。
そうか、と思いながら、尚隆はを見る。
「将軍から大司徒に、お叱りが飛んだのでございましょうか?」
「いや。双方言い争ったのだろうよ。俺が抜け出した事で」
「宮城に詰めねばならないお役職なのでしょうか?」
「まあ、そうだな。連れていってやろうか?漉水に。靖州から元州を抜けて、黒海へと続く所を見てみるか?」
「それでは小松さまに、ご迷惑がかかりましょう?」
「俺は一向に構わんが」
「でも…大司徒が…」
「帷湍の事ならなんとでもなろうよ」
「将軍は?」
「成笙も大丈夫だ」
何故大丈夫なのか分からないままに、は不安げな瞳を覗かせている。
「まあ、考えていては、何も始まらん」
尚隆はそう言っての手を取り、歩き始めていた。
まっすぐに禁門へと向かい、こっそりと迂回して、たまを呼んでいる。
「呼んで来るものなのですか?」
「頭がいいからな」
そう言っていると、本当に来たから驚きだった。
するりと跨り、を引き上げた所に、禁門を守っている夏官が走って来た。
「たま、行け」
下のほうから何やら叫び声がしていたが、その時にはすでに声の届かない所にまで来ていた。
そしての体は強張っていた。
すっかり忘れていた尚隆は、の顔を覗き込んで様子を窺う。
以前見た時よりも、はっきりと恐怖に歪んだ顔が見る。
「やはり慣れぬか。つかまるか?」
「し、失礼仕る」
がしっと胴に腕が回り、小刻みに震える体が押し付けられる。
「これでは空から見下ろす事は出来んな」
「ちょ、調査のためなら、なんとか…」
「ま、無理はするな」
顔を胸元に押し付けるようにしていて、どうやって覗きこむと言うのだろうか。
空を翔る尚隆は、一先ず漉水の付近で騎獣を降ろす。
地についたは安堵したようにして、すぐに川沿いに向かう。
「かなり深い…」
「使えそうか?」
「このまま行けば、あるいは…」
河口を見ながらそう呟いたは尚隆を振り返った。
「が、頑張りますから、この川沿いに進んでもらえますでしょうか?」
尚隆はおもしろそうに頷いて、たまに騎乗する。
前に乗せられたは、地を飛ぶよりも早くしがみ付いていた。
何の振動もないまま、目を開けるように言われたは、恐る恐るその目を開いていった。
眼下には、氾濫前の漉水があった。
優雅にたゆとう流れを見ながら、その流れの先を追う。
時折、眩暈がするのか、慌てて顔を上げては、頭を振って下を見る。
それを繰り返している内に、ついに黒海に抜け出していた。
「つ、使えます…」
なんとかそう言って、もう限界だとでも言いたげに、尚隆の胸元へと顔を埋めた。
何に使うのか分からないまま、尚隆は小高い丘に降り立った。
ゆっくりと来たせいもあり、距離をかせいだせいでもあり、蒼穹だった空はすでに赤銅色に染まっていた。
丘から見下ろした所に、ちょうど漉水が見えており、光を受けて瞬いている。
それをじっと見ていたは、ふいに顔を上げて尚隆に笑いかけた。
「木材を流しましょう」
「木材?」
尚隆はを見ながら問い返す。
「はい。船を渡すよりも効果的にかつ、大量の木材を運べます。最近、建設が盛んになってきたと聞き及びました。しかし、それの運搬に相当手間取っているのだとも。草寇などの妨害もありましょうが、まだ地が開けておらず、道を作る事から始めねばならぬと聞いております。でしたら、この流れを利用して、木材などの大きくて、水に浮くものは流してしまえばいいのです。州候や太守に協力を仰ぎ、下流の必要な場所に網を張り、待機していれば問題ないでしょう?」
「なるほどな」
確かに川に流れている木材を、奪おうとする者はおるまい。
心底感心したように言った尚隆は、の方向を見たまま、何やら考えに没頭しているようであった。
「あ…このような事を、小松さまに申し上げてもどうにもなりませんね。まずは大司徒に申し上げねば」
「いや、役に立つぞ。帷湍には俺から提案しておく。ついでにが教えてくれたのだから、今日の事は叱るなと言っておこう」
「…?…帷湍さまは大司徒であらせられますよ?小松さまが連れ出したなどと言うと、反対に怒られてしまいますわ。それに小松さまは夏官でございましょう?」
「夏官だと言った覚えはないが」
「夏官ではないのですか?」
「違うな」
「では、治水に興味がおありですか?」
「まあな」
それ以上は言わないだろうと思ったは、そうですか、とだけ言って口を噤んだ。
尚隆もまた、よくそう思う。
深追いはしない。
何しろ、浅いといった理由を聞きに地官府まで行ったのに、こんな所にまで来たのだから。
役に立つだろう、どうしても聞き出したい。
そうでもなければ、地官府で諦めて戻っていただろう。
朱衡の言った似ていると言うのは、この辺りなんだろうかと思うが、それも何やら違うような気がする。
しかし、そんな思考を他所に、はふと微笑んでいた。
何がおかしいのだろうかとその様子を伺っていると、は意外な名を口にする。
「小松さまは、台輔をご覧になられた事がございますか?」
「台輔?」
暮れる夕陽を目で追いながら話すは、笑みを湛えていた。
「ええ。私は今朝方、初めて台輔をお見かけいたしました。色々な髪の色をした方が多数おられるので、金の髪が台輔とは瞬時に分からず、随分と失礼な事をしてしまいました。その時、王の話を伺ったのです」
「王の?」
「はい。王が元は人であったと始めて知りました。私や大司徒のように、人であったと台輔に教えて頂きました。私は菩薩や仏像のような物を連想しておりましたから、そのお話しを伺った時には大変驚いてしまったのです」
「菩薩?」
呆れたような声に、は尚隆を見て、すぐに視線を夕陽へと移していった。
「やはり皆様が呆れるような事なのですね。王は神だと聞いて、勝手にそのように思っていたのです。でも、王も人間でらした…麒麟に選ばれると言う事が、どうゆう事なのか、ようやく判りました」
三年この世界に居て、ようやくその意味が分かったのだと言う。
それは雨のように、あるいは雷のように、突然空から舞い降りて来るような物だと思っていた。
人から選ばれた者が、神になるのだとは思っていなかったのだ。
「――ら…居るのだ」
小さく言う尚隆に、は目を向ける。
目を向けられ、尚隆は再び言うが、その目は先ほどのと同じく、暮れる空を見つめていた。
「だから、俺はここに居るのだ。逃げる民の殿(しんがり)を守った。だが、包囲された民を守ってやる事も出来ずに、槍で突かれた…そして、六太…延麒の使令に助けられた。気がついた時には…ちょうどこれぐらいの時刻だった。小船の上で、六太は俺に国が欲しいかと聞いてきた。俺にはまだ託されるものがあると…僅かに残った三十万の民と、この国があるからと…」
暮れゆく光に映えるのは、黒海である。
瀬戸内の海ではない。
「よかった…」
よかったと言ったの声に、驚いた尚隆は隣を振り返った。
振り返ったの頬には一筋の瞬きがあった。
黄金色に輝く雫は、ゆっくりと頬を伝って、音もなく消えていく。
「よかった…と?」
潤んだ瞳は陽の光を受けて、幾重にも瞬きを見せ、尚隆はその目をじっと見ていた。
見られていたの方も瞳を逸らさず、ただじっと見つめ返している。
そして、しっかりとした口調で話す。
「大内様…先代様ですが、小松殿の話を伺った時、胸が潰れそうに思った事がございました。そして、小松さまご本人からその事実を聞き、この方の魂は何処に行くのだろうかと…思った事がございました。ですが、ここは小松さまの国なのですね。それならば、小松は滅んでおりませぬ。詭弁とお笑いになられましょうとも、私にはそのように思います」
「小松は滅んでおらぬ、と?」
「瀬戸内だけが小松の民ではございません。この雁州国の民のすべてが、小松の民です。死んだ者は帰って来ませんが、新たに息吹く者もあるのですね…」
確かに、詭弁かも知れぬ、と尚隆は思ったが、その心根が嬉しい。
のいう言葉の何処にも、自分の事がない。
もちろん、大内の話でもない。
「俺のために…泣くというのか?」
しかし、一筋だけ流れた涙はすでになく、はただじっと尚隆を見ていた。
はたと気がついたように手を頬にあてたは、不思議そうに尚隆を見る。
「私は…泣いておりましたか?」
「気がついておらなんだか…」
は僅かに残る頬の水に、指をなぞる様にしていたが、分からないと言った表情に変わっていた。
「思い出した訳ではないのか…」
ここで辛い事でも言えば、再び涙がでるだろうかと考える。
それだけの情報も、尚隆は手に入れていた。
の話を聞いて随分たってから、六太に頼んだのだ。
蓬莱に行った六太は、すぐに尚隆の望む情報を手に戻ってきた。
それだけ早かったのは、すでに結果が出ていたからだ。
の仕えていた大内義隆は、その小さな息子もろとも、自害して果てていた。
恐らくは、が此方に流れ着いた直後だろう。
泣かないと言うのは、の言うとおり、悲しくなくて良いのかもしれないが、何かが欠けているような気がする。
だが、そのような辛い事実を伝えて、涙を誘うのは忍びない。
泣かしたい訳ではないのだから。
尚隆もまた、涙を流さない。
治水調査に出向いたおり、三年の歳月を経てと対話したあの時、泣けと言ったを腕に抱きながら、本当に泣けるかと思った。
実際に涙は出てこなかったが、その心は恐らく泣いていたのだろう。
だから、尚隆は泣き方を知らぬ訳ではなかった。
だが、は泣き方を知らない。
それはどこかで、亀裂を生むものに変化しはしないだろうか?
心に出来た亀裂は埋める事が難しい。
尚隆はに手を伸ばし、その体ごと引き寄せて腕の中にしまい込んだ。
「泣いても、いいのだぞ」
そう言ってみるが、の体は震えることなく、ただじっとしていた。
「泣けませぬ」
「まだ泣けぬか…」
「…。今は、悲しい事がございませんから…泣きようがございません」
それもそうだと思いながらも、腕は吸い付いたようにに絡まり、それをどける事が出来なかった。
どけようと思う意思は次々と挫け、ただその体を離すまいとする力だけはいとも簡単に入る。
闇が世界を覆い始め、昔はなかった所に明かりが燈り出してもなお、その腕は緩められる事無く、に巻きついたままであった。
「あ…小松さま?」
「ん?」
「王のお名前を一度か二度…お聞きしたように思うのですか…小松さまのお名前ではなかったように思うのですが?」
「“しょうりゅう”と言われているからな。俺は小松尚隆だ。誰もそうは呼ばないが…好きなほうで呼べばいい」
「で、でも…王であらせられるなら…主上とお呼びしなければ」
「構わん。堅苦しいのは好かんのでな」
「では…“しょうりゅう”さまと…」
「何故蓬莱の名ではない?」
「ここが蓬莱ではないからです。あなたはこの国を統べるために存在する。でしたら、この国の基(もとい)に乗っ取り、尚隆さまとお呼びするのが良いかと…」
「そうか。呼び捨てでも構わんぞ。抱き合った仲だしな」
「抱き…抱き合った!?」
慌てた様子と、胸元にかかる力を、尚隆は力を込めてやり過ごした。
「二度も同じ手が通用するか」
「な…何を仰って…」
さきほどとは、打って変わって焦った様子に、したり顔をする。
見下ろした顔は胸元に隠れていたが、僅かに見えている耳が赤い。
「は地官の仕事が好きか?」
「え…え…?地官の?は、はい」
「他分野に置いても、優秀だと朱衡が言っておったぞ」
「優秀だなんて…私など、浅学非才なれば…」
「そう謙遜するな。他の官府からも、引く手数多だと聞いたが。帷湍がよく迫られているそうだぞ。移動をしてくれと」
「大司徒が?」
「好きな所におればいいのだが…さきほどの案もたいしたものだ。地官としてこれほどの逸材はないと、帷湍が言うのも頷ける」
「そんな…」
「好きな位をくれてやりたい所だが、どのような位が欲しいのか、あいにくと分からん」
「位などいりませぬ。こうして尚隆さまの国が、発展して行くのを見る事ができるのなら、私は幸せでございます」
「欲の無い…」
その会話によって、赤かった耳は通常の色を取り戻しつつあった。
だが尚隆はなお離す事が出来ずに、そのまま腕の中に閉じ込めていた。
「あ、あの…いつまでこのままでおれば…?」
「なんだ?嫌か?」
「い、いえ。嫌と言う事ではございませんが…なにやら落ち着きませぬ…」
がそう言うと、ゆっくりと力が抜けていく。
開放された時、あたりはすでに暗闇に覆われ、黄昏だった空は遠くその影を潜めた後だった。
ただその影はの頬に残っていた。
まだうっすらと黄昏を映し出している。
その顔を覗き込みながら、尚隆はの瞳を見つめる。
「一つ、約束してくれぬか?」
「約束でございますか?」
尚隆は頷いて続ける。
「辛い事があれば…すぐに言え。溜め込まずに、全部」
「辛い事?」
分かっていないようなの頭部に手を置いて、尚隆は深く息を落とす。
「いいから。何でもいい。辛いと感じたなら、すぐに言うんだ」
「は…はい」
了解の言を受けた尚隆は薄く微笑んで、騎獣の方へと歩いて行く。
辛い事があって、簡単に泣けるのなら心配するまでもないが、はまだ泣く事が出来ない。
咽び泣いて、鬱積を晴らす事が出来ないのだ。
それが亀裂を生むのなら、回避してやりたいと思う。
同じ蓬莱から来た人間としてではなく、一人の男として。
「気がつかんか?」
独り呟いて、手綱を取った。
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